< 写真とリンクメモ >
☆Pakistan・Afghanistan・Iranは1978年東京外国語大学シルクロード遠征隊時代のものです
   ☆Mongoliaは1981-82年社会主義時代のものです                   
   ☆Modern Mongoliaは2006年撮影。*印の5枚は広島市在住の守岡 芳氏撮影
   ☆USSRはソ連崩壊前1989年のものです              

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Pakistan
K2   [写真に戻る]
カラコルム山脈 世界第2位の高峰 8611m PK753便 北京ーイスラマバード間

ラホール駅構内
作品へリンク「ラホール駅で」

モラモラドゥー   [写真に戻る]
仏教遺跡。クシャン朝時代仏教の最も栄えたところ。10時 34.5℃

シルカップ   [写真に戻る]
ギリシア人町があった跡。平城京の原型と考えられている。11時 38.0℃

イスラマバード空港
ボディーチェックが厳しい。腹巻きの中まで調べる。パキスタン人は背が高いようだ。男子便器が高くて、背伸びしながら用足ししなければ届かなかった。

ラホール空港
クーラー慣れしている我々には厳しい環境である。48℃湿度80%のもと体がだるい。自分の航空荷物がコンベアーから出てきたのであるが体が言うことを聞かない。幾度か回転してまた戻ってきたところを全エネルギーを集中してやっと取り戻したが、その後しばらくその場に座り込んで動けなかった。後にイランで62℃湿度0%を体験することになったが、まだ、湿度のないイランの方がしのぎやすかった。

イスラマバードーラワルピンディー間
初めは片側3車線あり広々とした道路。馬車あり、荷満載の牛車ありで実にのどかである。労働者は自転車に乗ったりトラックの荷台に相乗りしていたりする。カラコルム山脈終端マルマガラ山が右手にごつごつとした山肌をはっきり見える。途中道幅は狭まり、中央線がなくなる。が、道路の舗装はきちんとしている。信号はない。このあたりは河岸段丘が幾重にも重なったような奇観を呈していてその中を突っ切るように道が通じている。これがいまもインド大陸がユーラシア大陸を押し上げている現場なのかと実感した。きれいな石畳が見えたがムガール帝国時代のものだと聞く。

ラワルピンディー博物館    [写真に戻る]
偶像崇拝を許さぬイスラム教徒の侵入で多くの仏像が破壊された。それらの頭部や他の残骸が展示されている。仏塔最上部の相輪の原型がある。ラホール・ペシャワールにも博物館があるが、ラマダン(断食)を理由に入場が許可されなかった。この年は8月7日〜9月5日までがラマダンで、人々は日の出から日の入りまで何も口にしない。
カイバー峠
アレクサンダー大王も通ったという長く曲がりくねったパキスタン・アフガニスタン国境の峠。ペシャワール経由でアフガニスタンに入るにはどうしてもここを通らなければならない。通関で待たされること2時間。差し入れがなかったらもっと手間取ったことだろう。パキスタンの蒸し暑さもここからはなくなる。下痢もやっと峠を越えたようだ。用意してきた抗生物質でも(ここの下痢はクレオソートやビオフェルミンなどは全然役立たないと聞いていた)だめであったが、アフガニスタンから逆ルートで来ている旅行者の中に医師がおり、強力な抗生剤をもらってから、やっと生きた心地がしてきた。

Afghanistan
カーブール(カブール)
ジャララバードを通りカーブールへ。現地人の発音を何度も確認したのであるがカーブールが正しい。現地ではカブールと発音しないことは確かである。1776年以来アフガニスタンの首都だけあってにぎやか。市の中央をカーブール川が流れる。大通りの交通量が多く無造作な警笛と雑踏とで騒がしい。8月11日朝6時で24℃湿度20%と適温爽やかそのもの。

ゴルバンド
途中ゴルバンドという地名の所があった。モンゴル語では数の3を意味するので何かここの由来を知らないか、3という意味をふして現地ガイドに尋ねると、ここは川が3つに分かれるところだという返事があった。モンゴル語の地名が残っている所は多いがここもその一つである。

バーミヤン   [写真に戻る]
カーブールから西に分け入ること240km。標高2500mぐらい。有名な石窟群がある。特にカニシカ王時代に掘られた高さ38mの東大仏とその2世紀後掘られた55mの西大仏が知られている。数千に上る小さな洞穴は当時ここに暮らしていた僧侶達の住処。9世紀偶像崇拝をいやがるイスラム教徒により破壊された。その後も幾度か壊されている(最近ではアフガン内戦時の標的・タリバーンによる爆破など。この当時はアフガンの兵士ものんびりしたもので、写真機を向けても気軽に一緒に写ってくれた。人柄は民衆と同じようにみな優しく素朴そのものであった)。
朝6時13℃。今度は寒い。吐く息が白い。そこは夏の装備と冬の装備を同時にしなければ通れぬ絹の道のこと。いたしかたない。空気が澄んで清涼である。そのため落日は赤く染まらぬ。黄色い太陽がいつまでも淡黄色の光を残すのみである。しかし、それもまた美しい気がする。夕焼けには違いないのだ。夜は満天の星空を眺めることができる。ここの夜空以上に星の見える所を知らぬ(後に富士山やモンゴルにも行ったが、ここにはまったく敵わなかった)。夜は歩けない。星の光以外何も見えない。宿泊所や僅かな民家にも灯りがないのである。懐中電灯の光は闇に吸い込まれて足下だけしか見えない。打ち上げ花火を見ているように1分間に流星があちこちに数個出現する。流星群が出現する時期だったかも知れない。銀河の腕がはっきりと見え、今宇宙のただ中に立っているとはっきり実感できた。帰りが遅いので同宿の隊員が心配して見に来るまで一人夜空を眺めていた。(数年後私は勤務校で天文同好会の顧問となった。星々を見に日本の田舎に連れて行くのであるが、女生徒は特に感動してくれた。この程度でも感動してくれるのはありがたかったが、美しい星空を奪われている日本の子供達を不憫に思う)

シャリゴルゴーラ   [写真に戻る]
城跡。チンギスハーンの孫が戦死したために報復され、ここにたてこもった子女を含め全員惨殺された。そのため今でも悲鳴が聞こえ、土は赤く染まっているという。凹凸の地形が残っているので、悲鳴はここを過ぎる風切り音、土の色は赤土土壌だと思われる。周囲にはどこにも赤土が見つからないことを考えるとどこかから城壁を固めるために運んだのではないか。現在も少し土を掘り起こすと人骨が現れる。

シャガーリー峡谷   [写真に戻る]
玄奘三蔵一行が通り、その奇観に驚愕したという。セカール川の水温は12℃気温21℃であった。鷲が高いところに巣をかけている。50mを越える絶壁が両側に迫り幾重にも連なっていくこの迫力は何を持ってしても伝えようがない。

チャイハナ
こちらの喫茶店。全土に広がる。田舎では絨毯を敷いた何もない木陰でのんびり茶をすする。これをしないと体が保たない。アフガニスタンでは緑茶をよく飲む。日本と同じような陶器の急須(チャイサブ)に茶葉(チャイ)を入れて少し蒸してから飲む。茶葉はウーロン茶と同じぐらいの大きさと形をしていて、丸まっている。丁度ウーロン茶の葉の色が緑色をしているというと判りやすいかも知れない。味は繊細さを欠き大ざっぱで美味しくないが、小さな山桃と同様に喉の渇きを止める作用がある。休憩所としては最適である。こんな山奥で山本陽子のどぎつい絵の描かれているマッチを売っていた。1977年のSANYOのカレンダーがあった。

移動式住居   [写真に戻る]
遊牧民も多彩である。お互い通じない部族が沢山居る。これはトルキスタンから来ているアゾレスのゲル。

バンディアミール湖   [写真に戻る]
玄奘三蔵一行もここを通っている。砂漠の中に忽然と現れる。小さな湖。驚異の透明度である。鱒に似た魚が沢山泳いでいる。遠くから見るとこの写真右上の色に一番近い。青インクを流したような透明感のない不気味で気持ちの悪い深い藍色に人間には見えるが、近くで見るとこのように美しい色をしていてかなりの透明度がある。近くでも遠くでもこれまで誰も巧く写真に撮った者はいないと聞く。できあがると皆くすぼけてしまい何故かうまく写らないのである。

ハルブザー
ラグビーボール状の黄色いメロン。同じ形状の赤い西瓜もある。本場だけあって美味。強烈な日差しによって濃縮されるので、甘み香り共に最高。ハルブザー満載のトラックにはどこでも行き会う。呼び止めて買ったりもできる。天然の水筒である。

バルク
山岳地帯を離れこの辺りはステップ地帯。4時で43℃。畑の中にイスラム教寺院群廃墟が見える。元はゾロアスターを奉っていたが紀元前4世紀アレクサンダーの統治でギリシアの影響下に入り、1世紀クシャン朝時代に仏教が広まったことで仏教寺院が多数できた。その後9世紀までに40ほどのイスラム教寺院が建てられたという。1220年チンギスハーンに荒らされるまで繁栄を誇っていた。もうあと数10km北上するとソ連領である。(国境には何もないので、よくソ連が入ってこないね、こんなとこ(アフガニスタンには大変失礼な話であるが)盗ってもしょうがないんじゃないの、などと隊員と談笑していた。しかし、翌年ソ連はアフガニスタンにここから侵攻したのである。それから10年戦争になるとはまったく予想だにしていなかった。何という町何という国であろう。侵略の歴史をまた一ページ加えてしまった。)途中北の都市マザリシャリフを見た。大きなバザールがあり、ソ連の影響があってか、町にはロシア語を話せる者がいた。

サラン峠   [写真に戻る]
3363mの高所を通る山岳トンネルがある。16℃。周囲の山々はみな富士山なみかそれより高い。北の町マザリシャリフから首都カーブールへ行くためにはここを通らなければならない。カーブール側は両側に楓の木がほぼ10m間隔に植樹されていてきれいな直線道路が50km以上続く。人家に近づくとこちら特有の香りが漂う。ナンとハルブザーと羊肉の匂いが混じったような日常生活の香りだ。道路を走っていても小さな集落があるとわかるようになった。

ラシュクルガン    [写真に戻る]
カーブールからアジアハイウエーを南下して行くと一気に暑さが増してくる。40℃を軽く越え辺りは平坦な砂地に変わる。砂漠の中のオアシスのようにアフガニスタン第2の都市カンダハールがある。そこより更に150km西にラシュクルガンはある。朝9時35℃。9世紀ごろここは南部第2の都市であった。この都市の繁栄と人々の礼儀正しさと寛大さを11世紀アラブ人旅行者の記録に見ることができる。その後も冬季の都として栄えるが、1220年チンギスハーンに破壊された。今は砂漠の中に倒壊防止の詰め物をした凱旋門と廃墟を残すのみである。
夜でも40℃。全然眠れない。政変によりここのホテルは荒涼たるものである。窓ガラスはいたるところで破れメンテナンスはされていない。従業員がほとんどいなくなっている。体が怠く吐き気がする。ついに熱射病になるのかと思ったので水で全身を冷やすことを思いついた。皆を起こすわけにもいかない。昼の暑さと食事がとれず皆疲れているのだ。風呂場に行き蛇口をひねる。HとCまで判らなくなるほど疲れているのかと思い再度蛇口を確認したが間違えではなかった。いくら出しても熱いのである。配管ミスかとも思いHの方も試してみたが更に熱いのが出るだけである。我が運もここにつきたかと思うこと1時間諦めきれず出しっぱなしのお湯に手をかざしていた。少し温度が下がっているのを感じた。この時やっと救われた思いがよぎった。もしかすると設備を放置したままにしているので水道管内の水が温められてお湯になっているのではないか、まだ出し続ければひょっとして水になるのではないか。待つこと更に20分入水できる水温となった。アラーの神が救ってくれたのかも知れない。夜明けまで3時間水風呂につかったままうとうと寝ることができた。朝は気温33℃であったが、水風呂のお陰でやっと生気を取り戻すことができた。

ヘラート   [写真に戻る]
西の都市。8時28℃湿度20%。快適である。馬車に揺られて市内見物。カーブールほど大きな街並みではなく静かな佇まいをみせている。アフガニスタンでは一番気に入った町である。ガラス工場・絨毯工場・金曜モスクなどを見学した。この町は破壊と再建とを繰り返してきた歴史を持つ。今も残っているが紀元前4世紀にアレクサンダーが砦を造った。セルジュークトルコが破壊。後ホラズムの支配を受ける。13世紀に入り、チンギスハーンが置いた守備隊を全滅させたために報復により8万の兵により6ヶ月包囲されている。生き残った民は40人だけであったと言われている。その後復興の道を歩み今日に至る。

ボーダー
アフガン側が出国の印を忘れたために一度アフガン側の事務所まで戻された。アフガンの警務員一人を乗せてアフガン側の境を越える。イラン側では、最新式自動小銃で武装したスマートな制服の兵二人が検問していた。アフガンの粗末な剣付き鉄砲とは大違いである。ここからイラン側事務所まで荷物は自分で運ばなければならない。パスポート審査に40分ぐらいかかり荷物検査が始まった。全体で二つのスーツケースを開けるよう要求された。内一つは私のだ。仕方なく開けようとすると、開けるなOKだと言われた。指示に従ったことでOKになったようだ。もっともここからはインド人ガイドを雇っていて彼の顔の部分が大きいのだろう。地続きなのに国境を過ぎると辺りが一変してしまう。石油に潤う大国イラン。田舎町でも豊かである。

Iran
マシュハド(メシェッド)   [写真に戻る]
マシュハド駅は近代的センス溢れる大きな駅である。イランでは駅・空港などでの撮影が許可されていない。警備兵が必ずいる。年中戦争体制にあるような国だ。8時20℃湿度18%長袖でも寒い。自動車が町に溢れ、全然減速しない。横断は大変危険を伴う。横断歩道でさえ車優先である(残念ながら日本もそうなってきている)。小・中学生はイスズやヤマハ製のバイクを辺り構わず乗り回している。ホテルの子供のポーターにチップをやったのだが50セント硬貨を投げ出した。10ドルよこせというのである。素朴な国アフガニスタンから来ただけにショックが大きかった。インドから西に行けば行くほどだんだん人が悪くなるというのがインド人ガイドの口癖だった。インド人が一番いいかどうかは知らぬが、そんな気もしてきた。8時30分朝のラッシュ。日本の都市と変わらない。ただ、女性はみなチャドル、男性はベストを着て帽子をかぶっているのが、妙にエキゾチックだ

カスピ海沿岸の放牧   [写真に戻る]
イスファハーンから沿岸の町ゴルガンにかけてはまるで日本を感じさせる。今まで禿げ山と砂漠だったのが木々に覆われた山々と草原に変わる。丁度谷間にさしかかったとき、雨雲に覆われた。東海道線の京都−米原間の景色に似ている。風は冷ややかで、樹皮の香が漂う。湿度があるといっても40%どまりで、思ったほど多湿ではないようだ。放牧が見られる。

カスピ海   [写真に戻る]
汚れは前もって聞いていた。藻と近代文明の残骸とが絡んでいる。その昔カスピ海の真珠と呼ばれた面影はもはやない。今もキャビアの名産では知られている。遠浅である。対岸は無論見えない。イランの人々が海水浴をしている。

ダマバンド山    [写真に戻る]
富士山に似た奇麗な形をしたイラン最高峰の山ダマバンド。5608mはヨーロッパと西アジアでも最高峰。休火山である。この裾野を通ってテヘランに入る。裾野では放牧が行われている。

テヘラン    [写真に戻る]
1796年以来イランの首都。人口300万以上の大都市。どの店にもクーラーが完備していて快適である。「弁慶」という日本料理屋があるほか、多国籍料理が味わえる。考古学博物館・装飾美術博物館・民族博物館・美術館などがあり、王冠に付けられたダイヤモンドとしては世界最大のダリャイェニュール、サファイヤ・ルビー・エメラルドをふんだんに用いた宝石類が見られる。パファレビ王家はこれだけでも莫大な資産である。更にオイルマネーで国内は潤っている。失業保険で暮らしていけるほど社会福祉が発達していると聞く。そのせいか街には働かず暇な若者が昼も夜もひしめき合っている。あちらこちらで熱血口論している姿がある。交差点では先に頭を突っ込んだ車が先に行く権利がある。そのため交差点は戦場と化す。ちょっとぶつけてすぐ渋滞である。もともと車の台数は東京などより多い。ベンツ・BMWなどもよく見かける。こちらの観光バスに乗って感心した。東京で外人が褒めぬものの一つにバスがあったがその理由が初めて解った。こんな豪華なバスに乗るのは後にも先にもないだろう。これでも高級な方ではないと聞く。日本は道交法でサイズがせこく規定されているのだからサイズの話はしないとして、発想がまったく違う。機能よりまさに観光を楽しむ為の作りをしている。くだらぬシャンデリアやテレビなどないが、車作りの贅沢さをつぎ込んでいる。この国は豊である。

シラーズ    [写真に戻る]
バーゲエラム(約束の楽園)、ハーフェズなど美しい庭園や豪華なモスクがある。ホテルも豪華である。建材費と土地が高い東京では決して真似のできぬ作りである。まさにイスラムの詩の世界を堪能できる町だ。ここのワインは世界一美味しいと聞いている。17世紀ワイン国フランスの作家タベルニエがシラーズのワインを絶讃している。イスラム教国でもアルコールは大目に見られているので、比較的手に入いり易い。ホテルでとっておきのを出してもらった。ロゼであったが、香り・口当たりの良さは最高。アルコールをまったく感じさせない。葡萄ジュースの感じである。従って醉わない。1本空いた。それから1時間したら急に心地よい眠気が差してきて、気が付いたらベッドの中にいた。翌朝7時であった。御蔭で爽快な朝を迎えることができた。

ダリウス大王   [写真に戻る]
紀元前4〜5世紀ダリウス大王の大宮殿跡。紀元前3世紀アレクサンダーによって破壊されたが、発掘作業と修復作業で原形を多く見ることができる。ペルシャ帝国建国2,500年を祝い69か国の元首を招待したテントシティーが隣にある。2時60℃湿度0%で、日差しが強烈である。しかし、48℃湿度80%のパキスタンよりはまだ体が動く。湿度がないので日陰に入れば何とかなる。見事な遺跡である。しかし、全体を廻る力は湧いてこない。シラーズとここは季節を代えて再訪したいものである。帰り道、子供達が川遊びをしていた。大人達の姿はどこにも見えない。よくしたもので、子供達は日向を避けてまるでおままごとでもしているかのように、集まっていた。


Socialist Mongolia
草原の少女   [写真に戻る]
草原で出会った少女達。みな恥ずかしがり屋。一昔前の日本と同じように親の言うことには絶対服従。よい子ばかりである。

草原の夕暮れ   [写真に戻る]
長く続く草原地帯の夕暮れを国際列車の窓から撮ったもの。 今は関西国際空港から直接モンゴル国のボヤントオハー空港に降り立てるが、当時は飛行機は飛んでいない。北京から国際列車に乗り3日かかってオラーンバータル駅に着いた。週3便のみ、特急でも2日を要した。国名もモンゴル人民共和国という長たらしい社会主義国で、国境の検問は厳しかった。列車は中国国内が広軌鉄道のため国境の町「二連」(アルレン)でクレーン車による台車交換をする。モンゴル・ソ連領内は更に広い超広軌鉄道だからである。この町で中国料理を堪能する充分な時間がとれる。その後列車は警笛を決められた回数鳴らすとライトを指示どうりパッシングしながら徐行運転をして国境の中立地帯を越えモンゴル領内に着く。ザミーンウード駅である。列車両側にソ連製自動小銃を携えたモンゴル兵がつく。長いパスポートコントロールが続く。現代のモンゴルへ戻る

ゴビに立つ虹   [写真に戻る]
オラーンバータル市外に出るには許可がいった。許可は簡単には取れないから動けるのは実質上市内のみ。ジョールチンが入っていて観光化されている所だけは行けた。ウムヌゴビに行ったときのこと。恐竜の化石跡へ行く途中雨にあった。レースのカーテンのように雨がはっきり見える。横から雨が近づいてくると反対側に虹が出た。写真を撮るため車を降りた。右から左へと地面を叩きつける音がしてやがて、頭をこつこつ雹に叩かれ始めた。真夏でも雹が降るのだ。辺りは一時真っ暗になり、足下が小さい白い玉でにぎやかになる。細い川の流れが足下にできて、鉄砲水よろしくこのまま流されてしまうのか一瞬どきっとしたが、草原の雨はそう長くは続かない。5分もそのままで居ると、辺りは明るくなり始め日が差し始めた。行く手は晴れ、後ろは過ぎ去った雨の姿だけが見える。草原の地平線全体を隠せる程、雨幅はなく振り返った左右は相変わらず晴れのままだ。何という天気だろう。シャツはすぐに乾いた。

アイラグの撹拌   [写真に戻る]
7月アイルに寄った時のこと。外では痩せ牛にソーダを舐めさせていた。塩を与えたりもする。滋養や虫下しのためである。モンゴルでは今も昔も寄れば即ち客人。できたての馬乳酒を馳走になる。ゲルのなかでは馬乳酒を製造中。羊の革袋に入った馬乳酒を先がT字になった木の長い棒で、醗酵を促し、雑菌を繁殖させないため一日中何度も繰り返し撹拌する。良い馬乳酒にはこの撹拌が欠かせない。咽が渇いていたのと、口当たりがよいので丼茶碗で3杯飲んだ。初めはみな下痢をすると聞いていたが、その後まったく快調だった。考えてみれば去年の12月に渡蒙しているから、きっと免疫がもうできていたのかも知れない。田舎に帰って腹を白くして寝るのが本当に一番良い。ゲルのうたた寝、千の価値あり。

オラーンバータル市   [写真に戻る]
当時世界最小という一眼レフを持っていって、失敗した。軽いのはよかったが、35mmFilmが半分になるため一眼レフといってもレンズ解像度も悪くよくなかった。ここはあくまで1981年社会主義時代下の不自由なモンゴルを最悪の写真機で撮ったもの。Filmは没収されないように日本大使館の人達に頼みいちいち東京で現像して貰っていた。市内はガンダン寺とテレビ塔、有名なスフバータル広場に立つ石像。百貨店は中国の百貨店とまったく同じ造り。百貨店には棚はあってもあまり商品はない。たまに新しく入荷すると口コミで伝わりすぐ行列ができる。

メイデイ1   [写真に戻る]
スフバータル広場というのは普段はただの通り道。この日ばかりは市民で埋まる。ピオネルの子供達が奇麗なリボンとフラフープを持って参加。後から市民がモンゴルとソ連の友好をうたったいろいろな看板やら見せ物やらをトラックに載せたり、手に持ったりして続く。メイデイ4は教育大学前に掲げられた政府指導者達の顔。左から4人目が書記長ツェデンバル。最後にモンゴル軍が行進してきて、風船を空に放ち、式は終わる。5月でもザイサントルゴエが雪で白くなった。現代のモンゴルへ戻る

オラーンバータル市'89   [写真に戻る]
横長の写真は1989年夏再訪した時のもの。この時はパノラマが撮れる写真機を持参したのでまだましな写真。夜の10時でもこの明るさである。左は劇場と中央郵便局、右は結婚宮殿。81年にはなかった新しいホテルができた。「チンギスハーンは火葬された筈はない。モンゴルにはそうするほどの木が生えていない。」と私が学生時代真顔で言っていた某教授がいたが、彼はアメリカにはよく行くもののモンゴルには一度も行ったことはなかった。私も渡蒙するまではそうなのかと信じていたが、とんでもない話である。論より証拠。川の流れは清く、緑は濃く美しい。

バイカル湖   [写真に戻る]
このページの写真は全て89年のもの。シベリア南部にある淡水湖。標高455mにあり、世界一深い湖。最大深度は1,620mもある。摩周湖と同じく透明度は40mを超えるというが、年々生活排水のため汚れ、透明度は落ちている。浅いところでは湖底が覗けるが、底が暗い色の地質のため岸から少し離れると透明感はない。対岸は当然見えないが近くの岸が遠く山のように見える。空気は清涼、水は冷たい。ホテルからバスで湖畔に着き、遊覧船に乗った。中にロシア人女学生がいたのでいろいろ話が聞けた。日本にはぜひ行ってみたいという。バイカル湖周辺はモンゴル人の聖地とか故郷とか言われることがある。今でもブリヤート族がいるし、歴史的に見ても無理からぬことかも知れない。

モスクワ鉄道   [写真に戻る]
写真は「ロシア号」。モスクワとウラジオストーク間を7泊8日で結ぶ。イルクーツクからハバロフスクまでは2泊3日の行程。イルクーツクは奇麗で大きな町。ただし、空港はバイカル湖の影響で濃霧が発生しやすく、オラーンバータルから飛んできてなかなか着陸できないではらはらする。ブリヤート自治共和国の首都オランウデに降りることもある。駅は色々な列車が出入りしていて面白い。オランウデ行きとかタシケント行きとか、大きな回転掲示板が珍しい駅名を見せてくれる。待ち時間が長かったが、この掲示板を見て結構暇がつぶせた。イルクーツクにしてもハバロフスクにしてもどこかで見た街並み。そう、オラーンバータルと同じ。というよりソ連の街並みを模してオラーンバータルができあがっていたのだった。大きなロシア教会があったり、バザールがあったり、ものが割と豊かなのがモンゴルとは違う。写真のように「ロシア号」の食堂車は広々している。50ルーブルも出せば充分だが、できるメニューは極めて少なく何を聞いてもニェット。初めからこれならあると言えばいいのにと何度思ったことか。味は大味、とてもレストランの味ではない。北京-二連間をメニューどうりサービスしてくれる中国の食堂車の方が日本人には評判がいい。何となく物足りない。しかし、列車は各駅でよく止まる。地元の肥ったおばさん達が赤や黄色のトマトを量り売りしているのを買う楽しみはある。のんびりとタイガに沈む夕日を眺めるのもよい。4人のコンパートメントなので袖すり合うのもよい。小学校の算数の教師をしているというロシア人夫婦がとある駅から乗ってきた。これから田舎へ帰るところだという。太陽電池付きのカード電卓をあげた。こんなものは滅多に手に入らないと、驚いていた。感謝の標しに手製のソーセージを貰った。食堂車の食事より美味しかった。途中名も知らぬ駅で二人は降りていった。二度と会うこともない出会いを楽しめてよかった。だんだん空気が湿気と熱気を帯びてきて薄茶色の大河アムールが見える頃、ハバロフスクはもう近かった。


Modern Mongolia
空港   [写真に戻る]
チンギスハーン国際空港。この辺りはボヤントオハー(Буянт Ухаа:「善の小丘」の意)と呼ばれている地域であるため、 Buyant Ukhaa Airport と命名されていたが、2005年 12月 21日、建国800年記念の一環で空港名がChinggis Khaan International Airport に名称変更された。海抜1330m滑走路2本(3100m舗装滑走路・芝生2000m)。ILS(計器着陸装置:Instrument Landing Systemのこと)はまだない。 羽田からJAL直行便があり、4時間45分で行けるようになった。関空、成田からの便がある他、北京、ベルリン、モスクワ、イルクーツク、ソウル、ミラノ間にもモンゴル航空が就航している。仁川国際空港から大韓航空の便もある。25年前車輪に溝のない旧ソ連の中古アントノフでウムヌゴビまで飛んだ時は、これ以上小さな飛行場は見たことがなかったほどの平屋建てローカル空港であったが、今では写真の通り、24時間稼働のモンゴル国玄関口となっている。設備、規模ともにまだまだではあるが、着実に拡充している。飛行機は搭乗客160名ボーイングB737、同200名前後のエアバスA310も就航した。06年11月に気付いたのであるが、オラーンバータルがグーグルマップ衛星写真で最高倍率の一段前までズームできるようになった。(すごいとしか言葉がない。恐ろしい画像が一般に利用できるようになったものだ。これまで訪ねた所が懐かしく、世界を飛び回り一夜を明かすことがしばしばある。我が家まではっきり見えるとは)

アパート   [写真に戻る]
1981年から82年まで間借りしていた同型のロシア式アパート。このアパートのすぐ前東側2Fにあったが、今は11階建ての新ビルに取って代わっている。バヤンゴルホテル南隣りの好地にあり、当時はロシア人技術者が多く住んでいて、日本人は私一人。他が停電してもこの地域は第一地区(元首官邸、政庁などがある)ほどよくはないが、停電は少なかった。在蒙日本人は外交官家族を含んで全部で16人だけで、年間訪れる日本人も数十名であったが、現在では日本人観光客は2万人を超え、在留邦人も324名(2004年)になっている。

大学   [写真に戻る]
МУИС(Монгол Улсын Их Сургууль:モンゴル国立大学)昔チョイバルサン大学と呼ばれることもあった。大学正面には今でも当時のままチョイバルサンの像があった。粛正した点でスターリンになぞられることがあるが、モンゴルの発展に功績を認めてのことであろう。81年時大学は教育大学、農牧業大学など全国で7。全てが首都にあった。技術校47、中等学校25、幼稚園624、全アイマグで576校生徒数377,000人であった。総合大学は唯一この国立大学のみ。文学部外国語専修コース(Гадаад хэлний тэнхим )はこの建物の3Fにあった。当時日本語科は3年生5名、4年生5名で1、2年生はクラブ活動として4名が学んでいた。黒板の性能が劣悪でチョークで字が書けない。黒板消しがないので乾いた雑巾で拭く。電灯のない部屋があり、殆ど雨の日がないからよいものの、昼から暗い時は困った。前任の教授が交流基金からチョークを大量に送って置いてくれたので大助かりではあったが。他の学部、学科の先生までもが会うたびにチョークのお礼を言われるのには驚いた。テストの作成はカーボン紙を重ねて一度に三、四枚書き、それを生徒数になるまで繰り返して行う。コピー文化に慣れっこになってしまっていた私には初め苦痛であった。師弟関係は一昔前の日本のそれに似ている。まだ先生は生徒にとって尊敬の対象だった。モンゴルの生徒は純真であり素朴である。可哀想なくらい緊張して教師に気を使う。ロシア語科が当時一番人気の科であったが、99年に必修教科ではなくなり、新しく必修教科となった英語にその人気を譲ってしまった。日本語科はその時も今も2番人気。現在は第2校舎として授業に使われている。

中央図書館   [写真に戻る]
スターリン像がリンチン像に替わった。また、科学アカデミーが使用していたが、国立図書館となっている。

中央郵便局   [写真に戻る]
通称モンツァメとは、МОНЦАМЭ(монголын цахилгаан мэдээ)のこと。今はMONGOLIA TELECOMと英語でも書かれている。電話・電信・郵便局の機能を併せ持つ。

広告   [写真に戻る]
Mongolia Telecomのスフバータル広場側の広告には国際電話の掛け方IDD Call 001+との説明がある。その西側の銀行広告に4階建てビルよりも高く、白鵬の写真が飾られている。

白鵬 翔   [写真に戻る]
Мθнхбатын Даваажаргалが本名。従って、モンゴルの名付け方から、父の名はМθнхбатであることが知れるが、姓はЖигжид。父がモンゴル相撲の元横綱、オリンピックレスリング銀メダリストであることはモンゴル人なら誰でも知っている。今その息子が注目されている。銀行の広告は最低限あるだけで、「強いモンゴルを共に築きましょう」というメッセージが中央に大きく書かれていた。

劇場   [写真に戻る]
旧ナツァグドルジ劇場、スターリン密約によりロシアから移送された日本人捕虜達の力で大東亜戦争後完成をみた劇場。当時のまま立派に見えるが、他にもあった劇場は劇場としての機能を失い、ここ一つになったと聞いた。

百貨店   [写真に戻る]
左端の1921という赤い数字は25年前のままで懐かしい。社会主義化した年というよりは独立国となった思いの方が強いのか、残されていた。中国の援助で建てられた建物自体に変化はないが内外装が大きく変わった。エレベータが3機増え、外側がガラス張りになった。「立派な棚はあっても、そこにものがない」と言われた当時を偲ぶことはもうできない。市場経済化した今、ものは溢れる以外なく、残るは価格、多様性と質の問題である。AIWA, HITACHI, TOSHIBA, SHARPなどの日本メーカーが最上階の広告を独占している。[1981年の国立百貨店の写真]

新アパート群   [写真に戻る]
全人口256万人(2005年統計年鑑)中、この都市だけで97万人が暮らすためには、このような住宅を急造していかなければならない。地震が無いので鉄骨を入れない、インフラが追いつかない等の問題をかかえる。81年時、全人口は約1 65万、首都人口約40万人。

サウナ   [写真に戻る]
入る時間なし。詳細不明。店はあちこちで見かける。

銭湯   [写真に戻る]
NHKや映画ロケ班の日本人がご利用のホテル内風呂。サウナ付き温泉風なのは現代日本風。ホテルの調度品はよく見ると韓国製や中国製が多い。泊まり客でなくても利用できた。

GS   [写真に戻る]
ガソリンをбензと昔言っていたが今はтос。85T/Lだが上昇中であった。
スフバータル広場   [写真に戻る]
チンギスハーン像がまだ建設中であった。その分以前より狭くなっている。-40度のブリザードの中、まだ夜の明けない広場を時々滑ってバランスを崩しながら、モンゴル国立大学に通っていた頃を思い出した。斜めに横切ると早いので、早道に決めている人々と息を白ませながら毎朝すれちがった。メイデイのパレードはいつもここで行われていた。

参照   [社会主義時代のモンゴル-「メイデイ」解説参照]

スフバータル像   [写真に戻る]
広場の中央にモンゴルを独立に導いた英雄像は今も健在。外国人が珍しがってよく訪れる。イベント実況中継や音楽ライブが行われたりする。革命25年を記念して1946年7月11日に建てられた像は今も綺麗に保たれている。

オラーンバータル駅   [写真に戻る]
プラットホームは昔から低くそのまま。段差が大きいため、列車の階段を登るのが結構きつい。 社会主義時代のモンゴルの玄関口。特急で北京からまる2日。日本からでは北京に1泊するので、最短3日。飛行機と便が合わないとこの駅に着くには日本から4日かかった。今は大きなプラズマ画面が中央に広告を映し出し、2Fにはレストランも開業している。国際列車もあるが国内の需要を満たすために、国境の駅ザミーンウードで折り返す列車が随分でるようになった。夏場は駅前ロータリーは機能しないほど車の洪水となっており、駐車場も満杯状態である。駅弁、水、ジュースなど買える。

オラーンバータル駅構内   [写真に戻る]
駅舎に改札はなく、構内にはだれでも入れる。降水量が少ないため、ホームに屋根はない。30両以上繋がることもあり、ホームが長いため、鳥瞰できない。列車の乗車口ごとに2名の車掌がつく。車掌は女性が多い。

国内列車   [写真に戻る]
中蒙国境の駅ザミーンウードで折り返す列車。замын υυд ― УБ(Улаанбаатар) ― эрдэнэтを行き来する。外はペンキが新しいが、内装は昔のまま。コンパートメントの鍵が開きにくくなり、窓を開けるのも二人がかりでやっとの状態。

連結   [写真に戻る]
ロシア製ディーゼル機関車が前に4台連結し、計30両になった。鉄道に隧道は無く、このように山や丘があれば迂回して行くので、先頭車両が後ろから見える機会がたくさんある。特にアンテナ群があるところではいつまでたってもアンテナが見えるので同じ所を走っているような気がする。

ザミーンウード駅   [写真に戻る]
なんとあの駅が開放感漂う町に変身していた。ロシア製自動小銃を持ったモンゴル兵に両側を囲まれることはなくなった。中国側二連駅に出た途端感じた開放感に浸ることももはやない。今は寧ろ中国側の方が厳めしく感じられるくらいだ。この駅で停車していた時、モンゴルの国境警備兵に持ち物を没収されて泣き叫ぶ中国人達の声を聞いた。魔法瓶までとることはないだろうと列車の窓越しにモンゴル側の非道に憤慨しながら、その場の光景を目に焼き付けた。帰国時、公用旅券を持つ私に対しても荷物検査が列車内で実施された(モンゴル語で抗議したせいか、実際には形式的な短いものであったが)。そんな想い出が脳裏をよぎった。今は新幹線の大きな絵が描かれている。大きな時代の変化をもっとも感じられる所の一つであることに間違いはない。グーグルマップ衛星写真の高倍率で周辺を鳥瞰できるようになった。

参照   [社会主義時代のモンゴル-「草原の夕暮れ」解説参照]

国際列車   [写真に戻る]
北京―オラーンバータル―モスクワを結ぶ国際列車。特急で北京から2日は昔と変わらない。オラーンバータル―モスクワ間は4泊5日の道程。イルクーツクからハバロフスクまでの2泊3日の旅も楽しい。先頭の機関車だけ丁度通過した。[「モスクワ鉄道」解説参照]

モンゴル側国境   [写真に戻る]
ザミーンウード駅方向

中国側国境   [写真に戻る]
二連(アルレン)駅方向

中蒙国境緩衝地帯   [写真に戻る]
当時全く撮影が許されなかったモンゴル側国境と中国側国境。この緩衝地帯を一定の低速度で、決められた回数ライトをパッシングし、汽笛を合図代わりに鳴らしながら通過して、隣の駅に入った。中国側には当時武装兵はおらず、にこにこした女性がパスポートを集めにくるだけであった。

ザイサンの丘   [写真に戻る]
モンゴルは民話・昔話、口承文芸が豊富。この地にまつわる物語もあるが、建造物は革命後50年を記念し1971年に建てられたモザイク壁画が中心。至る所に名前の落書きがある。兵役を終えると必ずここにやってくると聞いた。また、モンゴルには新婚旅行がないので、ここを訪れるカップルも多いとも聞いている。市全体を見渡せる所としても有名。

同壁画   [写真に戻る]
モザイク壁画は、ナチスの旗や日章旗を踏みつけソ連・モンゴル両軍が握手をしているところもあるが、最後はCCCPの宇宙服を着た飛行士とモンゴルの人々が手を携えて鳩を持ち、平和を描いている。

中心街方向   [写真に戻る]
テレビ塔、サーカス場、広場などが見える

サーカス場方向   [写真に戻る]

ズームアップしたもので、中心近くに青い低い屋根が見えているところ。
発電所方向   [写真に戻る]

06年現在四つの火力発電所しかないため供給が追いつかない。81年時は二つだった。手前蛇行しているトーラ川が美しい。今年は流量が多い。川底が見える年もある。

テレビ塔方向   [写真に戻る]
右中央にガンダンの寺が見えている。以前は周囲に建物が少なかったため、すぐ発見できたが。[81年当時のテレビ塔参照]

政庁方向   [写真に戻る]
バヤンゴルホテル、郵便局、政庁などが見える。

バヤンゴル   [写真に戻る]
オラーンバータルホテルに次ぐ老舗。チンギスハーンホテルが今では最高の設備を誇り、フラワーホテル、ホワイトハウスホテルなどの新しいホテルの方が設備はよくなっている。12階と屋上がある。

ホテル内部   [写真に戻る] 日本人にも違和感のないつくりにしている。調度品は韓国・中国製が殆ど。шар номことYellow Pageが置かれるようになった。書店で探したところ、同じものが検索CD付きで4500T(約450円)で販売されていた。01、02など二桁から、101(火事)、102(警察)、103(救急)と三桁になった。鉄道-194 飛行機-198 タクシー-1909等々

ベッド   [写真に戻る]
クイーンかキングサイズと大きめで寝心地よい。

コンセント   [写真に戻る]
220V(50Hz)B型タイプ。コンバーターや重いトランスは不要になった。日本は米国用に以前から240V対応のアダプターを国内100Vでも兼用できるように製造してきた。そのため、B型プラグだけ持参すれば殆どの電機製品はそのまま使用できる。15Aまでの100V電源コードが240Vでも使える。

冷蔵庫   [写真に戻る]
冷蔵庫があった。中は空が相場なのだが、開けて二度驚いた。ものがある。本当にここはモンゴルなのだろうか。Heinenken, HAIG, WHITE HORSE, GORDONS, Schweppes, Sprite, Cola, Fanta... 自動会計ではないので、チェックアウト時、調べる時間がかかる。

テレビチャンネル   [写真に戻る]
MNはモンゴルの放送局。その他、TV3,5,7,9。ケーブルTVが入るため、日本でおなじみの、BBC, CNN, AXN, Cinemax, Discovery, National Geographic, Cartoon networkなど視聴可能。Russia, Ariran TVなど日本では見られない放送もある。NHK1,2も映る。日本からビデオを送ってもらう必要も減ったことだろう。81年時はテレビ局は1局のみの2チャンネル。87Mzモンゴル放送が火・木・土・日の6:00p.m.〜11:00p.m.で2チャンネルに。91Mzモスクワ放送が火〜土の7:45p.m.〜00:20a.m.で4チャンネルにそれぞれ受信できた。ただ、モンゴルの放送番組がない時は、モスクワ放送が2chに入った。両方放送がある日は火・木・土・日の4日間で、月曜日はどちらの放送もなかった。革命記念日や祝日が来ると特別放送があった。ラジオは今回聞く時間がなかった。日本で受信できる短波放送に「ラジオウランバートル」があることは以前から知られているが、現在は19:30と21:00から30分間だけ放送されている。12,085kHz

ドリンク   [写真に戻る]
Энержи(цэвэр ус)という商標のペットボトル飲料水が氾濫していた。スーテイツァイ、アイラグ、ショルなどを普通に摂っていれば、水分補給など必要ない。乾燥気候だからといって日本のように、水を頻繁に飲めば下痢をするだけだろう。どこに行くにもペットと一緒の文化は見直すべきかとも思う。

アイスクリーム   [写真に戻る]
зайрмагと言ったら、мороженоеとロシア語に直されたものだが、今はちゃんとモンゴル語を使っている。よい方向性である。味は今も昔も変わらず美味し〜い。

マーケット   [写真に戻る]
社会主義経済の場合、どの店で買っても同じ値段に決められていた。ものがあればだが、羊肉8、牛肉6,3、豚肉7,5、アルヒ1本32,5、ラジオ1,400であった(単位は肉1kg/T、当時正式レート1T=72円)。鶏肉は1年滞在して1回しか見たことがなかった。写真は現在のメルクーリザハ。これなら苦労せずに1年暮らしていけるというものだ。手前右からцθцгий,θрθм,ааруул,шар тус。黒く見えるのはブルーベリー。

酒屋   [写真に戻る]
これも同じメルクーリザハ内のリカーショップ。隣のスーパーにも山積みされていた。また、百貨店の食品売り場内にもある。何でもチンギスのネイミングブーム。アルヒ、おまえもか。これしかなかった強烈ARKHI-5,100T、後から出てきた滑らかBOLOP ARKHI-8,200T、今や最高峰CHINGGIS Gold(1L)-16,000Tなり。

占い   [写真に戻る]
モンゴル人は昔から占い好き。いつ越したらいいか、開店はどこがいいか、とか何でもすぐ相談するのだそうで。どこかの国に似ている。ただ、占い師は占い協会博士とかやたら肩書きがすごい。いかさま師はいないのだろうか。この日も行列ができていた。ガンダン東側の占い場にて。

草原の朝   [写真に戻る]

6時36分朝焼け。朝の冷気がすがすがしい。雲から漏れる光の柱が草原の朝を告げていく姿はどことなく神々しい。昔うまく撮れなかった写真が撮れて安堵したものの一枚。
民族音楽   [写真に戻る]
写真は建国800年記念特設会場のもの。今では、日本でもよくコンサートが開かれるようになっているので珍しくなくなった。ёочин(洋琴)、ятга(琴)、лимбэ(横笛)、морин хуур(馬頭琴)などを使いуртын дуу(長唄)やардын дуу(民謡)を唄ったり、хθθмий(フーミー)を詠ったりするのが一般的。賑やかなものになると、бυрээ(縦笛)、тоншуур(シンバル)、харанга(どら)などの鳴り物が加わり騒がしいものもある。

建国800年記念   [写真に戻る]
堺屋太一氏発案によるチンギスハーン軍の騎馬隊ショーの一こま。砂塵を巻き上げ、2時間もかかる壮大、勇壮なショーでした。イベント会場は天然自然、広いはず。空港を越えゾーモヴに行く途中を右に入ってすぐの所。会場は3,000人の観客席以外に様々な展示、ゲル、ワークショップ、カフェ、グッズ売り場、モンゴル弓の試射等々一日いても飽きないように工夫されていた。これなら初めての旅行者でもモンゴルがよく理解できると思った。モンゴルの金鉱を原資として、この会場をそのまま日本のどこかで、マザー牧場ならぬチンギス牧場として開いて欲しいものだ。どなたの指導か知らないが、帰る時、従業員総出で「ありがとうございました」「又おいで下さい」と流暢な日本語で声かけしながら、深々とお辞儀されたのには驚いた。まるで日本の旅館の帰り際を彷彿させた。

草原の夕暮れ   [写真に戻る]
ザミーンウードへ向かう途中の車上より。時間は夜9:15。地平線下に没しても、しばらくは空は明るいままである。 夏時間(DST:Daylight Saving Time)では日本との時差はないが、9月23日より始まる冬時間では、日本標準時より1時間遅れになる。DST開始時は3月24日夜11時を1時間すすめ、25日午前0時とする。

ガンダン寺   [写真に戻る]
ガンダンの敷地内には土産物屋を除いて、仏教大学、дацан(ダツァン)と呼ばれる6の学堂など13の建物があるが、その中で一番大きなものがこれ。Мигжэд Жанрайшиг(Migjed Janraisig)と呼ばれている。1911年にできたが、38年に中の仏像は解体され旧ソ連に没収された。現在ある26.5mの大仏は96年に再建されたもの。Erdenetの銅に金箔をかぶせた立派な像。死者の灯明(зул)を供える習慣が広く行われている。

マニ車   [写真に戻る]
ラマ教ではこれに触って回せば、厄よけ・幸運になると信じられている。хυрд(フルドゥ)という。

ボグドハーン宮殿   [写真に戻る]
第8代活仏だったボグドハーンの冬の宮殿が博物館として公開されている。1919年の建立。ここは昔も一部だが見学できた。

新仏像   [写真に戻る]
ザイサンの丘の麓、2003年に建てられた金色の仏像。

チンギスハーン肖像*   [写真に戻る]
ザイサンより東方の丘の斜面に白い小石を敷き詰めて描かれたチンギスハーンの肖像。チンギスハーンは社会主義教育では侵略者の扱いを受けていた為、授業では教えられていなかった。マルクス・レーニン主義、共産党史などが教えられていた。当時ソ連をオロス(ロシアのこと)と呼んでいた私はしばしばズブルルトゥ(ソ連邦)と呼ぶようにモンゴル人から注意されたものであるが、構わずオロスはオロスだ、と呼んではばからなかった。あの真面目なモンゴル人達は今どうしているのだろう。現代モンゴル国ではチンギスハーンは、国民統合の象徴となり、生涯を描いた漫画・映画など多数制作されているという。

アルタンモド   [写真に戻る]
ゴビの広範囲に点在して見られる。幹が金色に見えるところから呼ばれる俗称。アルタンモド(金色の木)の中で最も金に近い色を見つけた人は幸運になれると言われ、皆で探し回って遊んだことがある。

ノビル   [写真に戻る]
хυмэлと書き、アクセントの影響でフムールと聞こえる。蒙古葱(もうこねぎ)ともいわれる。塩漬けにして食す。そのままでも美味しいし、ボーズなどと一緒に食べると風味がよい。ご飯にもよくあう。ノビルAllium grayi(ユリ科ネギ属)は日本全国・朝鮮・中国等にも分布する多年草で、日本のものは30cmぐらいにまで伸びるが、モンゴルのものは15〜20cmぐらい。水の少ないところで生育した野生のネギは濃厚な味と香を持ち、野生のニラ(гогод)とともに一度食べると忘れられない味覚である。

トカゲ   [写真に戻る]
砂地に生息するトカゲ(гυрвэл)。モンゴルの生物はどれものんびりしているものが多いが、これは意外とすばしっこかった。

二瘤駱   [写真に戻る]
モンゴルの駱駝(総称тэмээ)は二瘤。一瘤駱駝はганц бθхтэйという。

砂丘*   [写真に戻る]
見渡す限り砂漠。砂漠といってもこのような砂だけの場所は極めて少なく、家畜の成育に適さない乾燥した背の低い草木があちこちまばらに生えている。

ツァガーンハダ駅   [写真に戻る]
ツァガーンハダ(цагаан хад)は白い岩の意味。東ゴビのアクセスポイント。この日はセ氏35度。近年暑いという。

残れる月   [写真に戻る]
ゲルに泊まった朝、まだ西の空に月が残っていた。お嫁さんが早起きして調理しているところ。気に入っているワンショットの一つ。夏場は暑いので、このようにかまどをゲルの外に出して調理することがある。

ゲルの組立   [写真に戻る]
ゲルの組立の実演をしてくれているところ。建国800年記念イベント会場にて。空港を越えゾーモヴに行く途中を右に入ってすぐの所。会場は様々な展示、ゲル、ワークショップ、カフェ、グッズ売り場、モンゴル弓の試射場等々があった。

入り口   [写真に戻る]
遊牧民のゲルの入り口。外開き南向き。扉(υυд)は梁同様朱色に塗られていることが多く、外側には 思い思いの装飾(хээ)が施されている。

天窓   [写真に戻る]
天窓(тооно)はゲルの中央にあって重要な部分。梁(はりунь:このゲルの場合81本、他に数種類ある)と中央2本の支柱(багана)を支え、かまど(голомт)の煙突(яндан)を出し、天窓を覆う布(θрх)を引いて開閉することで換気と温度調節を同時に効果的に行う。昼や夏の月のある夜などには、明かり取りにもなる。2本の横木があり、その間から煙突を出すタイプもある。横木はдаагаという。写真は天窓を半開きにしているところ。

ストーブ   [写真に戻る]
ストーブ兼かまど(голомт)。中央に置き、煙突(яндан)を天窓から出して使うが、夏場はゲル内が暑くなってしまうので、「残れる月」の写真のように外にだして使ったりする。このかまどを引き継ぐと「後継ぎ、相続人」(голомт залгамжлагч)になる。

燃料   [写真に戻る]
乾燥させた牛糞(аргал)を使うのは他の国でも見られる。糞といっても、元は草で「よもぎ」の項で書いたように、モンゴルのものはよい香りがする。不潔な感じはない。マッチ1本ですぐ火がつき、火力が強いので助かる。ここで蘊蓄(うんちく)を傾けよう。人糞(баас)、家畜の糞(бууц)、動物の子の糞(зунгаг)、牛糞の粉末(θтθг)、糞の層(хэрэл)、羊糞(хохир)、馬糞(хомоол)、駱駝糞(хоргол)、鳥糞(сангас)、重なった羊糞(хθрзθн)、凍った糞(хυйдэс)、幼畜の粘性糞(зунгаг)、小便まじりの形容したくない糞(шивх)などなど。

馬の乳搾り   [写真に戻る]
男が子馬を連れてきて3〜5秒だけ乳を飲ませるとすぐ、怪力で子馬を引き離しすぐそばに立たせておく。すかさず女が馬の左側にかがみ、左膝上にバケツをのせ、左手は前から、右手は馬の股の間から乳首をつかみ乳を搾る。母馬は子馬が乳を飲んでいると勘違いし、乳を出し続ける。この男女はいとこどうし。

乳搾り   [写真に戻る]
実はもう一人の男が次の子馬を別の所に待機させている。1回分の馬乳(саам)はそれほど多くないので、2分ぐらいで次の馬に移っていき、数頭でバケツをいっぱいにする。牛の搾乳と違い、馬は危険が伴うのでやらせてもらえなかった。馬は賢いので下手くそはすぐに気付かれ、暴れ出したら大変である。このように時間のロスなく次々と馬群を廻っていく。この時は40分ぐらいで一巡終了。2時間おきに行う搾乳のため、男達はゲルに入り休息をとる。デンベー(熊本県の球磨拳と似た遊び)を馬乳酒(айраг)を飲みながら楽しんだり、団欒したりする。労働の間の安らぎがある。

馬乳酒入れ   [写真に戻る]
この革袋はхθхυυрといい、馬乳と乳酸の種を入れ攪拌するためのもの。棒(хутгуур)で継続的に攪拌する必要がある。その為、入り口のすぐ左手に吊してあり、ゲルを訪れた人は座る前に何十回か攪拌する習慣がある。できあがる馬乳酒の味は攪拌回数に比例してよくなるため、家族みなちょくちょく来てはかき混ぜている。馬乳酒の上層に泡(ээрмэг)が立つ。

アーロール   [写真に戻る]
凝乳(ааруул)の乾燥させたもの。砂糖を入れたりする。まだ水分が残っているものはаарцという。砂糖なしでも充分美味しいが、少量くわえた、甘酸っぱい、できたてのаарцは美味。

ウルム   [写真に戻る]
牛乳(сυυ)を大鍋(тогоо)に入れかまど(голомт)の上で何度も杓子(しゃくし:шанага)で攪拌する。攪拌は回転ではなく、高くすくい上げながら、上から落とす(замрах)ことで、空気と混ぜ泡立て、水分を蒸発させる。2時間ぐらいこれを繰り返し行い火から下ろし、1日ねかせておく。翌日には上層に脂肪がクリームとなって凝固しているので、これをすくい取り、お皿に盛り、パンにつけて食べる。これも美味。

バンシテシュル   [写真に戻る]
バンシテシュルはбанштай шθлと書く。バンシ(банш)とは「餃子」(中)のこと。シュル(шθл)は「汁」。つまり、餃子入りスープのこと。こんなに今は野菜が手に入るようになったのですね。感無量。

三点盛り   [写真に戻る]
そんな盛りは勿論ありません。が、どれも日蒙共通の好物であり、名物ですので。上から時計回りに、ホーショール(хуушуур)、ボーズ(бууз<包子(中))、バンシ(банш<餃子(中))。

ヤステマハ   [写真に戻る]
ястай махで骨付き肉。モンゴル版スペアリブ。この時は羊の肋(あばら:хавирга)でした。茹で上がったばかりの骨付き肉をナイフ(хутга)でそぎながら食らいつくのも美味。旬は冬。

   [写真に戻る]
蒙古細葉蓬(もうこほそばよもぎ)Artemisia Mongolica Fischer 菊科よもぎ属は世界で250種もあるとか。日本では高山植物のたぐいに入り、1500m〜2000mあたりに分布する高嶺蓬(たかねよもぎ)Artemisia Sinanenoisによく似ている。素晴らしい芳香があり、モンゴルの空港から一歩出れば、国中がこの香りに包まれていることに気付く人がどれほどいるだろう。草原の香、自然の香、モンゴルの香、これらすべてこの蓬の香なのである。
タルバガ獲り   [写真に戻る]
タルバガ(тарвага)は草原マーモットのこと。肉をホルホグ(хорхог:胃、皮袋に焼いた石を入れ蒸し焼きにする)やボードグ(боодог:同様に外側から焼く)にして食べるのが有名。穴に住むが掘ったところが少し小高くなるのでタルバガの住処をドシ(дош)とよんでいる。銃弾は市内で意外と安く簡単に手に入る。

井戸   [写真に戻る]
掘り井戸(худаг)であるので、家畜のために地下から水を汲んでやらねばならぬ。夕方になると、馬繋ぎ(уяа)に繋がれてふて寝していた子馬達を放ち、馬群に戻す。馬を駆って、馬群を井戸まで導くのも男の仕事である。川でもあればいいのだろうが、面倒な話である。馬以外に牛、ヤクが順番に水を飲む。羊の群れは、家族の子供達が犬とともに面倒を見ていて、群中の山羊を操るようにして全体を移動させ、草をはませている。従って、羊は別行動なのでここにはいない。子馬達は明日の朝再び捕まるまでは、一晩中母馬に甘えることができる。

デゲー   [写真に戻る]
鉤(かぎ:дэгээ)。写真のように、元気のよすぎる雌馬の左前足を革製の鉤で縛ってしまう。そうしないと、搾乳できないほど暴れるのである。

駐馬場   [写真に戻る]
モンゴル草原の駐車場ならぬ駐馬場。馬繋ぎの紐(ひも:уяа)に繋いですぐ乗れるようにしておく。

ヤクの子   [写真に戻る]
まだ子なので、торойという。中部地方の方言「とれー」のような発音だが、ヤクの子は警戒心が強くなかなか寄ってこない。近づいて、手をそっと出しただけで一目散に逃げ出す。顔が牛の子に似て見える。

ヤク   [写真に戻る]
サルラク(сарлаг)はヤクである。ヤクはといえば、ウシ科の哺乳類でチベットから入った言葉。ヤクの毛をサワグ(саваг)といい、利用する。荷役以外は乳が濃いので滋養があるといって飲んでいる。かっこいい腹の毛は自然に伸びた毛でヒジム(хижим)という。

東ゴビパノラマ   [写真に戻る]
東ゴビ(дорно говь)は通過はしても下りたことはなかった。南ゴビ(θмнθ говь)はゴビアルタイ山脈が遠くにはっきり見えて美しかったが、ここは見渡す限り不毛の地。まさにゴビ。パノラマ写真にしてみました。