[閑話]   「長い、長〜い道のり」

         
運命的な出会いでした。黒田矢須子先生が都立四商英語指導教員で私は教育実習生。同じ大学学科の先輩でした!数年は賀状のやり取りが、やがて音信不通になりました                     

しかし、運命じゃ!30年後に夢にも...先生は横浜国大講師におなりで日本語教育に従事され、外国籍生徒のいる神奈川県内の高校を回っておいででした。私は授業の空きに休息休憩中、来客につき応接せよとの無慈悲なご命令。重い足取りで、玄関に行くとどこかで会ったような...突然の再会でした            

積もる話はおいて...このご縁で2003年「横浜国立大学外国籍生徒のための日本語教育研究会(YJES)」に参加させていただくことになったのです

そこには樋口万喜子さんがいました。彼女の凄まじいパワーに尻を叩かれながら、学習語彙の選定作業を継続。彼女は第二言語習得研究会や国際研究大会などで学習語彙を発表、 のち会は解散、私は元の教員の仕事に戻りました。彼女の膨大なエネルギーは枯渇せず、NPO法人「中学・高校生の日本語支援を考える会」を設立、 本書「補足」に記した通りの大活躍をされたのです
黒田矢須子先生 実習生

退職後余裕ができモンゴル語の世界を再見した私は、まだまだモンゴル人に役立つ教材が不足していることに気づきました。モンゴルの大学で1年間日本語を教えた経験から、モンゴル人にとっては日本語がいかに勉強しにくいかわかっていました。文法が似ているので会話は上達が早いですが、読み書きは全く駄目です。そこで、学習語彙のモンゴル語対訳を世に出し、少しでもモンゴルの人達、特に在日モンゴル人達の役に立てればと翻訳を決意したのです。
 先ずは海老名「えぼし」にて万喜子さんとディナー再会、快く出版の了解をいただけました。 次に、代々木からバスに乗り4時間半、福島県二本松市ナランさん宅へモンゴル語添削指導の懇願に。日本語とモンゴル語が同時に理解可能な人が理想でしたので。了解いただけただけでなく、料理店を開けるほど見事な手料理で歓待していただきました。彼女とは北朝鮮のような1981年のモンゴルで会ったのが最初でした。その後、彼女は来日され福島県二本松市で海外青年協力隊員にモンゴル語を教えることになりました。東京の拙宅に来られたこともありましたが、ご近所が私の結婚相手と間違って噂して...おっと、と                                
ナランさん 旧モンゴル

こうして、私が翻訳した例文を20文/日ずつEmailで送り、添削していただいたのですが、いかんせん、古い、なにぶん30年もの歳月が...私のモンゴル語訳は酷く初め数か月は一つも正解がなく落ち込みました。でも、付き合わされる一番の被害者は彼女であり、二本松訓練所の日本語教育の傍らとんでもない負担になっていることを思うと、途中でやめるわけにもいきません。孤軍奮闘じゃ四面楚歌じゃ孤立無援じゃ五里霧中じゃの四字熟語オンパレードの中にも、粘り強いご指導のお蔭で少しずつ光が差してきて改善されていったのでした。もう食べていくための仕事をしなくてもよくなっていたことも翻訳に集中できた理由としては大きかったです。 雨はいつかは止む。ついにノーミスの日が。満点家族、ヤッターマンじゃ。PCにほぼ毎日向い、奮戦すること1年と数か月、翻訳がついに完成したのです。でも、出版までにはまだ山が...                                       
翻訳が完成したのは2015年6月16日でした。万喜子さんのお勧めでココ出版へ相談しに行きました。しかし、 「中国語でも苦戦なのにモンゴル語では」と社長の承諾が得られませんでした。無理もありません。モンゴル人相手に日本語ーモンゴル語の語彙集などでは利益につながらないのです。結局自費出版することになりました。 社員の田中哲哉さんが大変親切な方で、ど素人の私に出版の仕方・ISBN取得方法・印刷所等きめ細かく教えてくださり、まさに地獄に仏でした。印刷はその年8月25日、無事刷り上りました                 

いよいよ渡蒙じゃ、渡蒙じゃ。少しでもモンゴルの人達の役にたてればと

2015年9月7日渡蒙。4回目。日本国大使館にて当時専門調査員だった滝口良さんに面会し、先ずは大使に献本。
 次に国立大学へ。日本語教育開始40周年記念イベントで大忙しのさなかでした。何とか記念に間に合って本当によかったです。当時日本語教師ドルゴルさんに再会。懐かしかったです。今は偉い大博士におなりでした。 レストランでランチをいただき、積もる話で時を忘れました。同級生の小野繁樹君がモンゴルでダイソーの店長をしていると聞き、案内していただきました。丁度店にいたのでこちらでもまた積もる話で…
ドルゴルさん 旧モンゴル
モンゴル・日本人材開発センターで国際交流基金派遣講師片桐準二さんにお会いし、現状把握。学生はスマホ持ちが多いので、デジタル化して欲しいとの要望がありましたが、一応献本
 10日トモルトゴーさんを訪ねアカデミーへ。1981年あの苦しかった社会主義時代をウランバートルで1年間親密に共有できたことから、旧知の親友といつも言ってくださるが、彼はモンゴル科学アカデミー書記長におなりで 名実モンゴル学者のトップに立つ方になり、まったく私とは格が違ってしまいました。献本すると、「これで、大学院でモンゴル語を教えた3人の学生の本が全て揃った」と喜んでくださいました。 昔のように奥様を交え3人で旧交を温めた晩でした
 11日トモルさんの教え子が校長をしている新モンゴル学園と日本語教育センターへ。噂には聞いておりましたが、全て日本式教育で飛躍的成果を上げている私立一貫校を見学、献本させていただきました。校舎は清潔、少人数、 勉強熱心...噂通りで今後も優秀な人材を輩出することでしょう
トモルさん ナランバヤル氏

12日帰国。短期間でしたが夢がかないました。 ただ、思うに夏でも盆地のため大気汚染が深刻なのは早急に解決しないと。冬を思うとぞっとします。当時でも星は余り見えませんでした(蝋燭しかないアフガニスタンの村がこれまでで一番綺麗な夜空でした)。ボーダーチェック厳しく、 4日もかけて旅した昔。今はダイレクトフライトで半日とは驚きですね...献本した残部はアマゾンにて販売することにしました
 16日藤沢市大庭霊園に眠る故吉沢典男先生墓参。在蒙中の1982年夏、北京駅頭までお出迎えいただいた お礼や出版の報告などしました。あの時は一刻も早く、息苦しいモンゴルを一時逃れて北京に来られていた先生のもとへ はせ参じたかったのでした...
 10月2日渋谷区松濤町モンゴル大使館に呼ばれ一等書記官スフバータル・ボロルチメグさんに面会、大使に献本。後は、国会図書館など各図書館や教育関係、マスコミ、モンゴル人力士などに献本しました
墓前にて ボロルチメグ氏
 
想えば長い、長〜い道のりでした。

1972年2月19日あさま山荘事件が大々的に放送された同じ日に、「モンゴルと国交回復」というニュースをぼんやりテレビで見ていました。その2か月後、大学入試に合格。あれから43年、日本語抽出に5年、翻訳に1年半... まさに、life is shortでした。様々な人達と出会い、その方々のお蔭でここまでこれたと心より感謝しております



   [Return to Home]