痛風友の会 会報「痛風」<会報No.222.〜No.226, March〜July, 1985年> 会員寄稿 5回連載 一人のクリスマス シートベルトにガタがきていたので隣りの席に勝手に移りクリスマスディナーとして準備された機内食をがら空きのパンナム機の中で一人寂しく食べたのは 今から四年前になる。夜も十時を過ぎロス発東京経由北京行きでは乗客も多いはずはなかった。窓下にはオリオン座の四角形がまるでペンダントでも吊した かのように夜の闇の底に輝いていた。北京に一泊し翌朝友誼商店で米、乾物などを買い込みその夜七時にオラーンバータル行きの国際列車に乗る。到着は翌 翌日の朝になってしまう。車窓からは茫茫と続く広大な平原が時には厚くまた時には薄く雪化粧して見えるだけであった。 オラーンバータル 駅で最初に私を出迎えたのはー38度の寒気であった。米製のパーカーを着、伊製のブーツを履いていても身がぞくぞくして顔がひどく痛い。 予想を越える寒さに驚かされた。ここの年間平均気温は何とマイナス2.7度。暖房が切れるのは6,7,8月の僅か三ヶ月間のみ。この間に春・夏・秋が足早に通り 過ぎて行く。それでもモンゴル人達にとっては、とっくにマイナス10度になっている9・10月は秋なのだそうで、日本の冬はモンゴルの秋だと言う。在蒙中 体験した最低気温はマイナス42度だったので、到着したこの日の朝は相当寒かったことになる。 運命的な日 しかし、こんな寒さに負けているわけにはいかなかった。実を言うと父は満州でソ連軍に捕虜になり、シベリアで三年間穴掘り作業をさせられていたことが ある。また、母にもハルピンで長男と長女を栄養失調で失うという辛い経験がある。だから、二人にとってこの寒さは私などよりももっとずっと厳しく骨身に 応えていたはずだった。 敗戦後引き揚げてきた母は父の在所である松江に身を寄せた。汽車賃もままならなかったと聞いている。父の兄は一人が戦死し、 もう一人は徴兵されず、月山神社の宮司と羽黒山神社の権宮司を兼職しこの時山形にいた。それから二年後死んだとされていた父が突然帰国、姉が生まれ そして私が生まれた。今から三十五年前の話である。まさか私がこの様な極寒の地に足跡を記すことになろうとは。何か運命的なものを感ぜずにはいられな かったのである。 日本語教育 大学の日本語科の先生と生徒、モンゴルの友人、日本人留学生、大使館の人達が私を出迎えに来ていてくれた。これまで日本語が使えないでいた一人旅の身に とって、とても嬉しく感じた。約百キロになる荷物をジープに載せ、着任の挨拶をするために大使館へ向かった。モンゴルの人口は約1 65万人。その中で約40 万人が首都に居住する。国土が日本の約4倍なので人口密度は1・あたりたった1人になる。従って、大学も全国で七つあるだけで、その全てが首都にある。総合 大学は唯一オラーンバータル国立大学のみである。その大学の文学部にある外国語専修コースに日本語科があり、3年生5人、4年生5人の計10名の学生が 設備不足の教室で日本語を学んでいる。黒板の性能が悪く字が書けない。黒板消しがないので雑巾で拭く。電灯のない部屋があり、まあ殆ど雨の日がないから よいものの、暗いときは困るのではないかと思う。私の前に派遣された日本語講師がチョークを大量に送って置いてくれたので大助かりであった。他の学部、 学科の先生までもが会うたびにチョークのお礼を言われるのには驚いた。日本語科以外にもフランス語科、英語科があって、それぞれの科に外国人講師が一人 ずつ派遣されていが、色々な面で日本人講師が他国の講師より優遇されている感じがしたのは、こんなささいな物質的援助もあるからだと思う。 テストの作成はカーボン紙を重ねて一度に三、四枚書き、それを生徒数になるまで繰り返して行う。コピー文化に慣れっこになってしまっていた私は一瞬青ざ めた。しかし、この程度で驚いていたのではとても一年間モンゴルでは暮らせない。私は日本大使館にお願いして、中古のコピー機を大学に寄贈した。正確には 個人的に贈呈したことになる。「寄贈などと言い出したら、こんな弱小語学科などに置いておける訳はない。あちこちから引き合いが来て争奪戦になる」とは 学部長の言。言われてみれば確かにモンゴルの政府でさえコピー機器は垂涎の的なのだ。議員連中が訪日した際には必ずと言ってよい程コピー関連会社を見学 していた。私としても先輩の多い大使館には迷惑は掛けたくなかったし、争いは欲するところではなかったから、その様な方法を採ったのであった。 師弟関係は一昔前の日本のそれに似ている。まだ先生は生徒にとって尊敬の対象なのだ。モンゴルの生徒は純真であり素朴である。可哀想なくらい緊張して教師 に気を使う。刃向かうことなど到底考えられない。中に頭の良い子がいて2年間日本語を学んだだけである程度話せる。日本語とモンゴル語は文法構造がまった く同じであり、両言語間の同族関係こそ正式には明らかにされていないが、どちらの国の学習者にとっても兄弟のような言語に思え、特に話すことにおいては 英語やヨーロッパの諸言語と比較すれば殆ど困難はない。国立大の日本語専任講師は二人ともモンゴル人女性で、日本にも何度か来ていることもあって日本語が うまい。その他にも日本語を話せる、あるいは、読み書きできるモンゴル人は多くはないが結構いる。ご存じの方も多いと思うが、終戦後ソ連軍にモンゴル の地で抑留生活を余儀なくされた人々が、現在の国立劇場やオペラハウス等を強制労働によって建設した。寒さと食糧難が追い討ちをかけ数多くの尊い命が失わ れることとなった。(今はオラーンバータル郊外に日本人墓地が建てられ、日本から墓参団が行けるようになっている)その時、日本語を体得した人々がいる わけだ。敬語を正しく使いこなし、昔風のとても上品な日本語をすらすらしゃべるモンゴル人もいる。また、最近では渋谷にモンゴル大使館ができ、若手の外交 官も日本語が上手である。留学生二人と教師一人が毎年相互交換されているので、極めて少ないが着実にお互いを理解できるものが増えていることは喜ばしい ことと思う。貿易額はさすが日本、抜け目なく急上昇中である。生徒だけでなくモンゴルの一般市民も日本に対する期待は大きい。在蒙日本大使館前の掲示板に 日本から送られてきた写真入りのニュースが貼られるたびに、黒山の人だかりができる。新製品はこちらがぼやっとしているとモンゴル人の方がよく知っている こともある。だから日本語を勉強したい生徒はそれだけ日本そのものに対する関心も高いわけで、日本語以外にも種々の質問がとぶ。日本語科はロシア語科に 次ぎ競争率が高い。そのため生徒の質は非常によいので問題はないが、心配なのは日本語が話せるようになると日本の製品に興味を持ちだし、あるレベル以上の 日本語の取得が難しくなることと、もう一つ、日本でのモンゴル語に対する需要の低さほどではないにせよ、日本語を生かせる職場が少ないこと等のため 日本語熱の冷却化現象が起こることである。 厳しい環境 ところで、外務省がモンゴルを不健康地域に指定しているにはそれなりの理由がある。気候、食事、娯楽などどれをとっても日本人には相当の苦行を強いられる からだ。主食は羊肉。塩で味付けした羊肉(殆どの場合煮込み)を茶碗いっぱいに盛って、お米をほんの少々摘んで毎日食べると考えれば理解しやすい。牛・豚・ 鳥肉は年に5、6回市場に出るだけであとは買えない。野菜は胡瓜、トマト、人参がほんの一時期でるのみで、昔の日本のように生産調整されていない。悪くなっ たものも含まれたまま量り売りされる。スーパーの形式を採った店が幾つもあるが、人が少ないからレジの緩慢さはさほど苦にならないけれども、店の棚はがらん としていて全ての棚が商品で埋まったためしがない。チェコ製のピクルス、ソ連製の果物の缶詰がある時、やっとほっとした気分になれる。友人のモンゴル人は 「モンゴル人は羊肉さえ充分あれば殆ど文句は言わない」と言う。牛肉は1kg約550円、羊肉は最も高いが1kgで600円ちょっとで買える。肉が大好きな人なら天国 といえる。「一日1kgぐらい食べている人も多い」とも言う。便利さという時に必要な一種の麻薬が切れて、最後まで耐え抜けずに帰国した教師や留学生もかつて いた。自分を鍛える道場だと渡蒙前に割り切っていた私はカルチャーショック無しでどうやら過ごせた。だが、標高1300mの高地でもあり、特にマイナス40度の風が 吹き付ける冬は想像を絶する疲労度で、モンゴルは日本の三倍疲れるところと言う人さえいる。モンゴル人の平均寿命が60歳代であることが環境の厳しさを物語っ ていると思う。昔は虫歯など少なかった牧民の歯が今やぼろぼろになっている。革命後、ソ連製のチョコレート菓子やジャムが国内に出回っていること、それに歯 を磨く習慣が定着していないことも原因と思う。乳製品で暮らす夏を除いて完璧に近い肉食であるし、アルコール度50度のモンゴル酒を飮む現地の男性には痛風の 人も多いと聞く。他に高血圧、高脂血症、心臓病、痔疾患も多いそうである。 娯楽 日本ほど娯楽の多い国はないと思われるかも知れないが、どの国にも少し滞在しただけでは解らない娯楽もある。ソ連と同様の社会主義体制を敷き、年間平均気温 マイナス2.7度にもなるモンゴルはビキニとかハイレグなどの過激水着とはまったく縁がない国と思っていた。ところが、東独から水上サーカスの一座が年に一度 やってくるのだ。外気温マイナス30度の頃でもサーカス場内は暖かく、普段のサークルを利用し、特大のビニールシートで即席の温水プールを作る。水中と水上な ので特殊な技術が必要なサーカスだ。色とりどりのスポットライトと水の織りなす影は美しく、背のすらっとしたドイツ美人のビキニ姿が眩しく映える。恥ずかし い話であるが、私は渡蒙するまで普通のサーカスでさえ見たことがなかった。冬にはモンゴル人が週二、三回は行くオペラや舞踊にも行ったことがなかった。人と 人の接することの素晴らしさを初めて体験して、涙がこぼれたことを想い出す。場内の人々と一体になって感動を分かち合う喜びはテレビや映画の比ではない。 私は一端の文化人気取りでサーカス、オペラ、舞踊の順に足繁く通った。モンゴル人はあまり拍手をしないし、感動もおおっぴらに表現しない。友達のモンゴル人 がここの見物人はマナーが悪いとこぼしていたが、私から見れば日本人も大同小異ではないかと思う。 子供達・女性達 子供達は羊の踝を使ったおはじき、お手玉、あやとり、じゃんけん、ケンケンパーなどで遊ぶ。石ころや空き缶を使ったサッカー、ホッケーは男の子の遊び。長年の 自然淘汰か、マイナス30度でも帽子を被らず、薄いシャツとブレザーだけの驚異的な子もいる。共稼ぎが多いので、女の子は中学に入る頃になると食事当番に当たる。 日本の子供達よりよく親の仕事を手伝う。峽峡の食事はよくできたね、今日の食事はよくできたね、と親が褒めると明るくにこっと笑う。女性の社会進出の度合いは 日本より無論高い。国際社会に於いて日本が低すぎるのだ。ただ単に共稼ぎが多きからだけではない。学校長、工場長、課長、部長、所長、議長といった要職にも数 多く就いていて、女性の地位は高いのである。大多数の日本人が知らない国際婦人デーの3月8日は国民の祝日になっている。何処の家でも女性はプレゼントをもら う。この日ばかりは料理もしない。職を持ち同時に母として強く生き抜く女性達の姿は昨年NHK特集で放送されたほどである。決して誇張ではないのだ。 モンゴル料理 代表的なもので大変おいしいものにボーズとホーショールというのがある。どちらも羊肉を使った肉料理で、ボーズの方は中国のパオズ(包子)と同様小麦粉を練った 皮で挽き肉、玉葱を包んで蒸したもの。ホーショールはそれを平らに伸ばして、蒸すのではなく、油で揚げたものである。なあんだと思われるかも知れないが料理とい うのは材料の質が異なると味はまったく違うものとなる。小麦粉を自分で練って使うのと、餃子の皮を使うのとでもまったく別物になる。まして肉がぜんぜん違う。 帰国後同じようにして作って食べてみたが、モンゴルで食したものほど旨くなかった。夏はアイラグが美味しい。馬の乳を革袋に入れ、休み無く撹拌しながら乳酸発酵 させたアルコール分4%前後の乳酸飲料である。カルピス食品工業社長三島海雲氏は「初恋五十年」(ダイヤモンド社刊)という著作の中で、「蒙古に行ったとき、蒙古 民族のたくましさに驚いた。......そしてその秘密を知ることができた。」とアイラグ(馬乳酒)について述べている。何とこのアイラグからヒントを得てカルピスが 誕生したのである。カルピスを飲みながらモンゴルの大草原を思い浮かべる方がどの程度いらっしゃるか。その他、乳製品となると、その種類は極めて多様であり、 岡山大学農学部が75年から77年に学術調査をした際に、モンゴルの乳利用は極めて高度で全く驚嘆に値する、と各学者を唸らせたほどである。サンプリングの詳しい 分析データも発表されているが、要するに羊や駱駝、ヤクやハイナク、牛の乳どれをとっても日本の平均よりも脂肪や蛋白質が豊富で濃い。そして、その理由は素晴ら しい天然の草、澄みきった空気、古い伝統を脈々と今日まで受け継ぎ守ってきた遊牧技術にあるというのだ。抜けるような青空を仰ぎ、太古の時代から少しも変わって いないような透明な空気を皆さんにも腹一杯吸っていただきたいものである。 単身赴任の身 冬の買い出しが特に厳しい。パーカーが目立ちすぎて、まわりからじろじろ見られて仕方がなかったので、現地で羊のコートを買ったのであるが、それが15kgの重さが ある。肉はkg単位でしか買えないのと、授業の関係で何度も買い出しに行けないのとで、一度に羊肉を10kg買う。「10kgなんてモンゴルの家庭では一週間ともたないよ」 と笑われたことがあるが、私には一ヶ月以上の量だ。他の買い物があるから、身体にかかる重量は優に30kgを越える。おまけに雪が数センチ程凍結して道路に張り付いて とても滑りやすい。高地のため空気が薄い。更に、マイナス40度の寒風が容赦なく吹き付ける。何度も何度も足を休め、手を休め、這々の体でやっと二階のアパートに 辿り着いた時にはもう全身の疲労が限界に来ている。そのまま着替えもせずベッドに倒れ込み、起きられず寝入ってしまい、翌日になってしまったことが初めのうち何度 かあった。米が食べたくなったので二日かけて北京へ買いに行くことにした。途中フランスの観光団と一緒になったのだが、その一行の中に82歳になる老人がいた。 日本人の50歳ぐらいの若さでとてもそんな歳には見えない。私の上の寝台に寝るという。交替してあげると言ったが、大丈夫と言って、力瘤を見せ笑った。赴任していく ときには雪しか見えなかったのに、今は草原が青々として続きまるで別世界になっていた。国境の町ザミンウードに着いた。自動小銃を持った兵隊達が列車の両側を見張る。 相変わらず重苦しい感じの駅だ。帰国する中国人達がモンゴルの役人に多くの物を没収されていた。ポットまでとることはないと思うのだが。列車中が暗い気分になった。 ところが、我が部屋の82歳のじいさん、さすが年の功。急にフランスの音楽をかけ始めたのである。すると、それに合わせて本物のギャル達が列車の廊下で踊り出すでは ないか。すぐもとの明るさが甦った。結局フランス人達の乗った車両は私以外ノーチェックとなった。私はと言えば様子をながめていたところ、フランス人ではない顔と して官憲の一人に見つかってしまったのだった。が、パスポートを提出すると中を見てすぐ「失礼しました」とモンゴル語で言って、返してよこした。それ以上の調べは なかった。待つこと2時間。やっと中国側国境の町アーレン(二連)である。兵隊の姿はなく、実に長閑なところである。ニコニコした中国娘がニイハオと入ってきて パスポートを集めていった。米を買いに行くのにもパスポートとビザが必要なのである。いろいろ教えられるところが多かったフランス人達一行は深夜大同で下車した。 ちょっぴり寂しい気がした。北京駅に朝七時に到着。何故中国人はいつもこんなに荷物を持ち歩いているのだろう。まるで戦時中の買い出しだ。そんなことを思っている と急にフラッシュがたかれたので驚いてその方を見ると恩師吉沢先生が出迎えに来ていて下さったのだ。(訃報:吉沢典男先生は去る3月8日心筋炎で 逝去されました。「ちょっとおかしな日本語」「NHKおもしろゼミナール」「NHK言葉の一分メモ」などで活躍されていたので、先生をご存じの方も多いと思います。 痛友で恩師でもある金田一春彦先生が弔辞を読まれ、鎌倉でしめやかに葬儀が執り行われました。(3月10日)ここに記して哀悼の意を表します。) 買い出しの下準備 日本語を教えるため中国の長春に出張していた親友の守屋宏則君(現明治大助教授)がモンゴルの私に手紙をくれた。それによると、恩師吉沢典男博士が北京の語言学院に 日本語を教授なさりにお出かけになっているとのこと。二人で陣中見舞いに行かないかというのである。二人とも先生には大学院時代より深い師弟関係を許され、本当に 公私に渡りいろいろとご指導を賜った。十二年前先生が心臓を悪くされ名古屋の病院に入院なさっていたときのことをふと思いだした。彼と一緒に先生の病気に見舞いに 馳せ参じたのであるが、その時には先生は病室で安静にしているものかは、ヘリコプターの子供のおもちゃでニコニコして遊んでおられた。「ちゃんと寝ていなくてはだめ じゃないですか」と進言すると、照れながら「このおもちゃは案外面白いよ」とおっしゃられて、我々にも遊ぶように言われた。今度は何をしておいでになるのかな、など と考えると急いで北京へ行きたくなった。今回は引っ越し荷物が無い分余計に米や野菜もついでに買って帰れるし。だが、長春から守屋君の手紙が着くのが遅すぎていた ため、予定の日まで丁度二週間しかなかった。北京へ出るには、モンゴル外務省と中国大使館とに出向き、それぞれの国のビザを取らねばならない。取得まで最低二週間は 必要と在モンゴル日本大使館から前もって知れされていた。ぎりぎりなのである。北京の宿と オラーンバータル・北京間の切符も予約しなければならなかった。私が行く ことを手紙で吉沢先生にお伝えしていたのではとても間に合わない。そこで一か八か日本の奥様に電話して、奥様より先生にお伝え願う以外ないと考えた。今日でも 中蒙間は国際電話が通じない。ところが、日蒙間ならモスクワ経由で通じるのである。昼ホテルに行き、受付に夜8時の受信時刻を予約して大先輩宅でコールを待つ。 予定より遅れること30分、随分長く感じられた。幸運にも奥様はお宅にいらっしゃった。当時先生宅は四軒もあって、奥様が一番おいでになる可能性の高いところに かけた。奥様は外国旅行にしばしば出かけられる方なので日本にはいらっしゃらない可能性もあったのである。もしお話しできなかったらホテルに再度行き同じことを 何日間か繰り返さなければならないところであった。通話料は一回十分で三万六千円である。帰国するまでに都合六回かけたが、何故か高い通話料のことは全然気になら なかった。ビザの方は大使館の方々のご尽力で一週間という異例の早さで取得できた。また、国際列車の切符もキャンセルがあったため、一枚だけ買うことができた。 こんな訳で先生も我々も共に国外での日本語教育の任にありながらも北京での再会を果たせたのはまったくの幸運の連続であったという他はなかった。 北京にて 異国での再会を喜び合い北京駅頭で記念写真を撮った後、先生が滞在されている友誼賓舘へ向かった。在北京日本大使館の証明がないとどうしても宿泊できないことを知り、 大使館に電話したところ、既に別の宿を予約して下さっていた。そこで、先生達と行動を共にするとき、同じ宿の方が便利であるので、友誼賓館に変更していただけないか とお願いした。大使館からも私を出迎えて下さるために北京駅に担当の方がいらっしゃっていたことは後で知らされた。残念ながら、その時はお会いできなかったのだ。 この二つのすれ違いがあってか、私は大使館の方々から自分勝手だと不評をかうはめになってしまったが、それについては気にしても仕方なかった。ただ、モンゴルから 打電して気配りしていただいた先輩には大変申し訳ないことをしてしまったと悔やんだ。朝食をとり、先生のお部屋で風呂を馳走していただき、やっと長旅の疲れから 解放された。昼から王府井、故宮を見物。夕食を竹園というレストランでいただいた。毛沢東首席夫人江青さんの寝所が今はビヤガーデンである。希有な出来事、再会の 喜びに乾杯。お互いの近況などを酒の肴にして、心ゆくまで酔う。野菜が不足しているから食べろ食べろと言われて、沢山いただいた。中国は何処へ言っても野菜がある のがよい。私はつくづく農耕民族の一員だと思い知らされる。北京がオラーンバータルと同じ不健康都市と考えられるのはおかしいと思う。日本料理店もあり、日本酒を はじめ、すきやき、鰻、刺身、天麩羅まで食べられる。品にもよるけれども、食べてみたところ日本のものよりも美味しいものもあった。「中国料理ははじめの家は美味 しくて食べるが二週間としないうちに大豆油に飽きがくる」とおっしゃる北京在住の方も結構多い。贅沢な話であると思う。娯楽にしても随分色々と楽しめると思う。 ただ日本との種類が違うだけである。 待望の買い出し 王府井には中国国内で生活している少数民族に関する専門店があるのだが、そこで内蒙古の方言について記述した本を数冊買うことができた。中国、ソ連、アフガニスタン、 イラン領内のモンゴル人を全て合わせると、現在のモンゴル人民共和国(外蒙)に住むモンゴル人よりもその数が多くなる。民族の居住良きと国家・領土、同一言語使用 範囲が一致しない場合も世界では多い。モンゴルとて例外ではない。無論今は混血かが進み生粋のモンゴル人は殆どいないが、言語そのものは残っている場合もある。 特に内蒙古における研究は目覚ましいものがある。内蒙古大学との交流も近年活発になっていることはモンゴル関係者にとっては喜ばしいことである。 今から約35年前京都大学の岩村忍教授を中心とした学術探検隊はアフガニスタンのモゴール族を求めてかなりの成果をあげた。丁度10年前の夏、吉沢教授を中心として シルクロード調査隊を編成、北京より飛行機でパキスタンに入り、そこから先は車でアフガニスタン、イランと全行程三千数百キロを走破したことがあった。モゴール語の 調査のため私も隊員に加えていただいたのであったが、連日40度を優に越える暑さのため不運にも体調を全く崩してしまい、何の成果もあげられなかったのは残念であっ た。外蒙の言葉自体まだ未調査の部分が多いが、周辺の方言にはかなり昔の言葉が残っている場合があるので、言語研究上は極めて重要な資料をこの種の研究は与えてく れる。また、友誼商店によって念願の品々を色々買い込むこともできた。上等米40キロとパン、人参、ピーマン、キャベツなどの野菜を数十キロ、日本酒、ビール、 万年筆なども買った。青島鮮卑酒も旨いがどちらかというと北京鮮卑酒の方が気に入った。100キロ近い食料の買い物をしたが、米を除けば一月立たないうちに消費し てしまうものばかりであることを考えると、益々荷が重く感じられた。 恩師とのお別れ 北京での四日間はあっと言う間に過ぎてしまったが、肉体的にも精神的にも大いに充電できた期間であった。オラーンバータル へ出発する前夜先生のお部屋で今度は日本 での再会を約して乾杯した。先生には北京の街を案内していただいたり、その他のことでもいろいろとお世話になった。お世話になりっぱなしで、お返しするときがない。 今となってはもう永久になくなってしまった。ある時、「もしお世話になった人がいて、その人にお返しできない時にはどうしたらよいのですか」とお尋ねすると、 先生曰く、「私とて諸先輩に多くお世話をいただいている。何もその当人ではなくても、弟子なり、後輩なり、知り合った人達なりに「お世話」の気持ちを伝えたらよい」 と。学生時代ご馳走していただき、食事代を払おうとしたら、「学生の分際で何だ」と怒られてしまった。就職後に、「今度は給料をいただいていますから」と申し上げ ると。「俺の方が給料余分にもらってるから俺に払わせろ」とおっしゃって、結局ただの一度も私が払ったことはなかった。吉沢先生は常にご自分を厳しく律せられ 他人には何処までもお優しかった。結構です、と申し上げるのに、翌朝早く玄関までお見送りいただいたことが今でも目に浮かぶ。私は何倍にも勇気づけられ、また、 オラーンバータル に向けて二日の道程を戻っていった。 モンゴル人の大家 帰ると私の部屋の鍵は開いていて、アパートの管理人が中にいた。私の不在中部屋の壁の塗り替えをすると大家に言われていたことを思い出した。まだ塗料の臭気が強く 渡蒙して以来一度も開けられたことのない二重窓も開いていた。お茶をいっぱい馳走になった。しかし、お茶の包みをよく見て驚いた。私の購入したものだった。もっと 驚かされたのは、冷蔵庫に保存しておいた日本食が全くなくなっていたことだった。ご丁寧なことにモンゴルで買った食料はちゃんと残っていた。尋ねると、「冷蔵庫の 中のものは悪くなるから私が全部食べてあげた」と答える。確かに、北京へ出かける前に貴重品は大使館に預けておくようにと念を押されていた。が、食品まで預ける 気はしなかったし、そんなことを考えてもみなかった。まさか、佃煮や味噌漬け、梅干しなどを食べるモンゴル人がいるとは思いも寄らなかったのである。呆れ返って 返す言葉がでなかった。不在中のお礼を述べ、中国製万年筆を渡すと恵比須顔で帰っていった。 寮生 その日の午後日本人留学生四人が遊びに来た。買い物を依頼された品々を彼らに渡す。お土産に買った日本酒を振る舞ったのであるが、皆50度のモンゴル酒になれて しまっているから、一升など10分ともたない。内蒙古の酒を買っておいて助かった。70度もある。さすがに若くて酒豪の彼らも中瓶半本も空けられなかった。飮む と咽喉から食道までもチリチリするのが感じられる。まさに火酒である。飮みながらモンゴルの大学の寮生活などを聞いた。留学生一人に対してモンゴル人大学生一人 が付いた同居生活である。先ほどの大家の話をすると皆似たような話をし始めた。机上の日本製ラジカセがない。同居人に尋ねると友人に貸したと答える。その友人を やっと見つけて尋ねると、また別の友人に貸したという。結局出てこないのだ。日本人にしてみれば他人のものを勝手に貸すとは何事だと言うことになる。所有意識の 強い人なら怒り心頭に発することだろう。モンゴル人にしてみれば、貴重品なら目立たないところにしっかり保管しておくべきだとなる。どうも所有という概念が違う ようだ。貰い物をしても日本人のような感謝の気持ちがないように感じられる。例えば、酒を持参した人、肉を携えてきた人、それぞれにお礼の言葉なく宴会が始まる。 酒が誰のものか、そんなことは関係ない、あるのだから飮めばよい。肉が今あるのだから誰のものでもない、皆で食べればよい。今度は自分が持ってくるかも知れない し、あるいは、他の人が持ってくるかも知れない。兎に角、今を楽しめればそれでよいのだ。また、モンゴルでは他の人の家に押し掛けた方が断然有利な立場となる。 押し掛けた方は何の遠慮もなく居座る。押し掛けられた方はお茶や食事まで出して色々気を使ってもてなす。遊牧民には何処か似た考え方があるらしい。アラビア人の 気質にも相通ずるところがある。砂漠や平原を何日もかかって旅してきた人々の苦労を理解し、歓待するのである。客となった旅人の方は、ここから遠く西へ行ったと ころに水があったとか、草がよく生えているところを知っているとか、旅で得た知識を話すことによって客となったお返しとする。一見理解しがたい考え方も、その考 えを支える基盤、生活のあり方、民族の伝統などを同時に考えると、なるほどと納得できることが多い。 モンゴルの夏 留学生達を見送って窓外をみると、八月も下旬というのに雪が舞っていた。遠くの山々が青白く映えて美しい。なんと凄まじい気象変化の国だろう。ただ、モンゴルの 夏は他に類をみない程素晴らしいものである。真夏でも日中23度前後、湿度は殆ど0%に近く、爽やかな高原の風が吹く。大地は一斉に緑に蔽われ、蓬の一種があち こちに咲く。そのためフランスの香水を一面に振り撒いたかのような素敵な香が街一杯に漂う。行き交う人々の表情も明るい。馬乳酒やチーズ、ヨーグルト、生クリー ム、アイスクリーム等が豊富に食べられ、飽きがこない。モンゴルの乳製品が世界のトップクラスに入ることは既に述べたが、どれをとっても本物中の本物。最高の味 が楽しめる。モンゴル人は夏の期間これらの乳製品だけを食し、肉は食べない。その理由は、秋・冬・春と肉ばかり食べ続けて疲れた胃腸を休めるためとも、夏草を 羊達にたっぷり食わせ肥やすためとも言われている。モンゴル人は伝統的に魚を食べないので、もっぱら日本人が近くの川へ魚釣りに出掛けるのもこの時期である。 公害のない天然の渓流には鱒に似た魚が沢山泳いでいる。どの川も透明で美しく水温12度前後。魚の方は釣られた経験もないから疑似餌で充分かかる。大使館に 勤める先輩の奥様に天麩羅にして食べさせていただいたところ何とこれまで食べた魚の中で一番美味しく感じられた。モンゴルの魚は旨い。これは事情通にはよく知ら れていることである。川がないと思われる向きもあるのだが、モンゴルにはハンガイといって、河川、湖沼、湿地帯が集中する東部と砂漠地帯で有名な南部のゴビとに 分かれる。北部は森林地帯、西部は高度四千メートル級の山岳地帯である。短い夏の間を利用してゴビに国内旅行した。地球が誕生してから今まで一度も触れられた ことのない様な素晴らしい空気であった。空の色は一万メートルを飛ぶ飛行機の窓からみた上空の色と等しい。東欧諸国の結核患者もここまで来て治療している。 治療成績はすこぶるよいと聞く。夜は満天の星。しばし浪漫に浸るには恰好の場所である。 ナーダム モンゴルの男達の勇壮さを競うものに三つの伝統的遊技がある。相撲・弓・競馬がそれである。この夏の時期に全国から予選を勝ち抜いてきた強豪が首都オラーンバー タルで決勝を行う。毎年7月11日の革命記念日とその次の日に、相撲は国立競技場、弓は隣りの射場、競馬は郊外の草原でみられる。表彰は何れも政府高官が列席 するメインスタジアムで行われる。全国民が興味を持って見守る「民族の祭典」であるので、勝者は国民的英雄となる。 チンギス汗の時代に空前絶後の大帝国を建設した民族の末裔達。厳しい環境で自然淘汰され続けてきた者達。その力と力がぶつかり合う相撲は見応えがある。 主食が羊肉であるモンゴル人の筋力は強靭そのもの。男性は握力が70kgぐらいはごく普通で、強い部類に入らない。女性も強い。恥ずかしい話であるが軟弱者の私は 何度もモンゴル人女性に荷物運びを手伝ってもらったことがある。いとも軽々と運んでしまうのにはただ驚くのみであった。そんな筋力の強い者どうしが闘うモンゴル 相撲は相手の肘、膝、背中のいずれかを地につければ勝ちとなる。オリンピックの柔道で銀メダルをとったモンゴル人がいる。日本の柔道関係者によれば「一番恐い のはモンゴルの選手。力任せに来るので下手をすると日本の選手は骨折する。まだ技がないから勝てるが、将来最強の相手となるだろう」という話である。 モンゴル弓は元寇の役でその優秀さが証明されたといわれる。小型で速射がきく。弦は鹿の首の皮で作られた強靭なもので、弓の方は柳の木であるが、牛の腱や樹皮を 使い張力を極限まで高めている。小型でも和弓より遠くまで飛ぶ。元の時代に飛距離五百メートルという大記録が残されている。つまり、筋力のない者には絶対引けぬ 強弓なのである。矢は三枚羽根をずらして取り付け、螺旋回転するよう工夫されている。このため、命中精度が上昇し、より深く突き刺さることになる。ライフル銃 以前の民族の経験的知識の蓄積である。現在の競技は75メートルの革製の筒を標的として飛ばないように工夫された二十本の矢を放って競う。ナーダムの競馬は 世界最長レースである。何と30kmを一気に走り抜く。しかも、騎手は6歳から12歳の子供しか許されない。モンゴル人は3歳になると男でも女でも馬に乗り始める。 そして、6歳から正式の騎手になれる。だからモンゴル人の乗馬技術は最高クラスのものである。オラーンバータル 郊外の草原でゴールの瞬間を見ることができる。 その模様を82年にNHK取材班がビデオに撮り日本で放送している。 蒙古馬 馬の話を始めるとモンゴル人で笑顔を見せぬものはいない。それ程誰でも馬好きなのである。モンゴルの人達にとって羊が主食として最高の食料であるように、馬は 古来最高の乗物、また最愛の部下となってきた乗物であるから、馬乳酒は造るけれども、日本のように桜と称して食べたりはしない。もし馬について詳細に書けば 一冊の本ができてしまう程内容があるので、ここでは極めて簡単に記すことにとどめたい。成育した蒙古馬の大きさは、普通高さ140cm、重さ約300kg。 日本では岩手県に生息する南部駒と同じ血筋を引く。500kgにもなるサラブレッドと比べればまったく見劣りする。ところが、この馬こそがアジア大陸からヨーロ ッパ大陸に至るまで、チンギス汗の兵隊を乗せ各地の民族を震え上がらせた乗物なのである。ヨーロッパの人々はこの馬を「鼠みたいな馬」と呼び恐れていた。 4〜5kmの短距離ならば、サラブレッドの方が完全に速い。しかし、30kmを越える長距離になるとモンゴル馬に勝てる馬はいなくなる。サラブレッドなら10kmが限度 といわれるのに、30km以上の長距離を全力疾走できる耐久力を持つ。日本人は出世魚にみられるように、同じ魚を成長するに従って区別して呼ぶ。例えば、ワカシ、 イナダ、ワラサ、ブリなど。日本人の繊細さ、魚に対する並々ならぬ愛着が感じられる。これと同じようにモンゴル人は馬を次の観点から区別して呼ぶ。去勢、非去勢、 種馬。1歳、1〜2歳、3歳の雄雌、4歳(門歯でる、次の歯でる)、5歳、、、11歳。馬だけで16もの独立した名詞がある。この分類が牛や羊などの他の家畜に まで及ぶから、私などは今でも全部は憶えきれずにいる。第一見分けなど付くわけがない。フランス語も割と詳細な家畜に関する語彙を持つが、モンゴル語とは全然 比較にならない。モンゴル語では更に馬の毛の色や斑点の状態まで細かく区別して呼んでいる。とても付き合いきれるものではない。 モンゴル人の特技 モンゴルの牧民は遠くからでも、どんな馬かすぐ見分ける。動物的な直感は素晴らしい。一度に100頭もの馬の特徴を記憶し、どの馬が今いるか、いないかは無論、 健康状態まで一頭一頭把握し得る。旧陸軍省の資料によればモンゴル人の平均視力は3、0、一番よく見えるもので5、0とある。チンギス汗時代に千里眼という抜群 の視力を持つ部下がいて、普通のものなら3日行程(馬に乗り3日かからないと着かない距離)しか見えないのに、その男は5日行程までも見えたという。空気が澄ん でいて遮るもののない大草原で暮らしているのだから目のよいのは当然と言える。その中でも群を抜く視力の持ち主がいたということであろう。ことモンゴルの記述 となると、人であろうと国であろうと信じがたい事ばかり書かなければならない。誇張でないことをなかなか理解してもらえない。百聞は一見に如かず、と言いたい。 大戦前日本の特高警察が蒙古に入ったのも色々な理由があった。青雲の志を懐いて大陸へ渡った日本人達の中にはある製薬会社から、目薬の研究開発のため蒙古に派遣 された人もいた事実を付け加えておきたい。 モンゴル人の友人 東京で知り合ったモンゴル人の友人がいる。彼とは彼が日本にモンゴル語を教えに来ていた時知り合ったのであった。今度は私が彼の国で日本語を教えに来ているわけ でモンゴルで再会がかなった後は二人の友情は極めて固いものとなった。彼は日本がどのような国であるか知っている少数派だ。そんな彼が単身赴任の私の悲惨な食事 を考えて土曜日の夜は彼の家で食べさせて下さった。日本とはケタ違いに物が少ないからバランスのとれた食事などまったく期待していなかったが、食料の調達合戦に 参加する手間と料理する手間をある程度省くことができたのは幸いであった。また、本場の家庭料理が食べられた上に、モンゴル語の勉強もできたのであるから、人間 関係の大切さほど人生の苦楽を左右するものはないとの感を深くしたしだいである。彼との友情は今も続いている。 さらばモンゴル 帰国する日、友人、日本語科の生徒・先生達、留学生達、大使館の人々など多くの人々がオラーンバータル駅まで見送りに来て下さった。モンゴル人の親友も奥さんと 一緒に来てくれ、帰りの車中で食べるようにと名物のモンゴル料理ボーズとホーショールをしこたま差し入れて下さった。みんな、暇なわけではない。しかし、人と人 とが接する時間を本当に多く取れる国、モンゴル。その素晴らしさ。 渡蒙する際実に多くの人々のお世話になってきたが、現地滞在中にもまた何と沢山の人達に出会い、多大のご援助、ご厚情をいただいたことか。今さらのように感謝の 気持ちが深くこみ上げてきた。そのことがいつも私を無口にする。そんな性格がまた頭をもたげた、こんなことではいけない、と思う心を振り切り、やっと開くそのお礼 の言葉がいつも付け足し的に響く。言葉は何故こうもいつも人の気持ちを伝えられないのか。 もう冬になっていた。気温マイナス30度。何か運命的なものを寒さに感じ、耐える決意を固めた昨年の赴任時のことを思うと、今は同じ寒さが、心温まる人々の人情 に接し、全く寒くなく感じられていた。見送りに来て下さった大勢の人々の顔を、共に作ってきた思い出に重ね合わせながら、一人一人確認するかのように車窓から 見つめた。やがて、汽笛と共に人々の姿が横に流れていった。長かったモンゴル滞在を終え、一路帰国の途に着いた。 後記 米国と色々な点で比較されることの多い昨今、米国以外の国と日本との比較の重要性がもっと強調されなければなりますまい。ある点では日米は似た傾向を持つ国だから です。日本独自の生き方、ありようを真に見直すとき、この拙文を一つのカタログとしてご覧いただけたら幸いであります。モンゴル関係の詳細を記